ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
「小鹿さんが日本刀をコートの懐に忍ばせて…」アントニオ猪木の付き人だった藤波辰爾が明かした、新日本旗揚げの“壮絶な舞台裏”
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph byAFLO
posted2022/03/01 06:00
50年前の新日本プロレス設立当時の波乱万丈をアントニオ猪木(右)の付き人だった藤波が語った
「ウグイス嬢を倍賞美津子さん、千恵子さんがやってくれた」
興行ルートも選手招聘ルートもマスコミも、すべてを断たれて四面楚歌に立たされた猪木。それでも新団体の雰囲気は決して悪くなかったという。
「あの逆境がかえって猪木さんや我々の力になったんじゃないかな。『そうはいかん!』というね。確かに、旗揚げシリーズは1大会で4~5試合しか組めなかったし、旗揚げ戦の大田区体育館以外は、地方に行くと観客も数えられるくらいしかいない。『これが天下のアントニオ猪木の旗揚げシリーズか』と愕然とするくらいで、それがしばらく続いたんだけど、みんな必死だった。
猪木さんは買ったばかりの新居を僕らの合宿所に提供して、その庭に半分手作りで練習場を建ててね。それが今もある野毛の新日本プロレス道場ですよ。そこで練習したあとは、我々レスラーも飛び込み営業をしてチケットを売って歩いた。宣伝カーのウグイス嬢を猪木さんの奥さんである倍賞美津子さんや、姉の倍賞千恵子さんがやってくれたり、みんな『なんとか新日本プロレスを成功させるんだ』って燃えていたから怖くなかったし、負ける気がしなかった。そういう熱意がファンにも伝わっていって、少しずつお客さんが増えていったんですよ」
「とにかく『全日本に負けるな』が合い言葉だった」
新日本が旗揚げした7カ月後、日プロを離脱した馬場が全日本プロレスを旗揚げ。こちらは最初から日プロの放送を打ち切った日本テレビの全面バックアップがあり、豪華外国人レスラーも次々と来日。それに対し、テレビのレギュラー放送もなく、外国人レスラーも無名ばかりの新日本は大きく差をつけられていた。その差が縮まり始めるのは、翌73年4月に日プロ坂口征二が新日本に加わり、日プロから鞍替えしたNETのテレビレギュラー放送がスタートしてからだ。
そして馬場、猪木とテレビ放送を失った日本プロレスは人気が急降下し、4月20日の群馬大会を最後にあっさりと崩壊する。こうして日本のプロレス界は馬場の全日本と猪木の新日本の時代に突入。それがその後、50年間続く大きな幹となった。
「あの頃を振り返ると、全日本へのライバル心が、新日本を大きくしたようなものですよ。新日本旗揚げの半年後、馬場さんが全日本を旗揚げしてなかったら、猪木さんもあそこまでエネルギーを燃やせなかったと思う。とにかく『全日本に負けるな』が我々の合い言葉だったからね」
今の新日本はすでに“猪木の新日本”ではなく、今の全日本もまた“馬場の全日本”ではない。しかし両団体、馬場、猪木両巨頭の異常なライバル意識が生み出した切磋琢磨の先に50周年があることは間違いないのである。
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