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「小鹿さんが日本刀をコートの懐に忍ばせて…」アントニオ猪木の付き人だった藤波辰爾が明かした、新日本旗揚げの“壮絶な舞台裏”

posted2022/03/01 06:00

 
「小鹿さんが日本刀をコートの懐に忍ばせて…」アントニオ猪木の付き人だった藤波辰爾が明かした、新日本旗揚げの“壮絶な舞台裏”<Number Web> photograph by AFLO

50年前の新日本プロレス設立当時の波乱万丈をアントニオ猪木(右)の付き人だった藤波が語った

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堀江ガンツ

堀江ガンツGantz Horie

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 新日本プロレス創立50周年を記念して行われる3・1『旗揚げ記念日』日本武道館大会。メインイベントはNJPW旗揚げ50周年記念試合として、オカダ・カズチカ&棚橋弘至&藤波辰爾の歴代IWGP王者トリオが、ザック・セイバーJr.&鈴木みのる&藤原喜明という新旧サブミッションマスターと対戦することが発表された。

 新日本の歴史を感じさせる豪華6人タッグマッチ。キャリアの長いファンにとっての注目はやはり、新日本の黎明期を知る大ベテラン藤波と藤原の出場だろう。とくに藤波は今から50年前の1972年3月6日、大田区体育館で行われた旗揚げ戦にも出場したオリジナルメンバー。旗揚げ当時の新日本を知っているということは、新日本がもっとも苦しかった時代を知っているということでもある。

 今でこそ業界ナンバーワンの地位を確固たるものにして久しい新日本だが、旗揚げ当時はアントニオ猪木という金看板があるとはいえ、いつ潰れてもおかしくない弱小団体だったのだ。

絶頂期に組織は腐敗…猪木は永久追放に

 そもそも新日本プロレスは、計画的に設立された団体ではなく、やむにやまれぬ事情から生まれた団体だった。新日本設立前年の1971年、猪木はインターヘビー級王者・馬場に次ぐ二大エースのひとりとして、日本プロレス(日プロ)のトップに君臨。馬場と猪木の“BI砲”人気はすさまじく、日プロは日本テレビとNETテレビ(現・テレビ朝日)の2局で毎週ゴールデンタイムに放送。興行も全国各地で超満員を続け、凄まじい収益をあげていた。

 しかし、そんな絶頂期に組織は腐敗する。我が世の春を謳歌していた日プロの幹部は、連日のように夜の街で豪遊。あまりにもどんぶり勘定な放漫経営で、儲かっているはずなのになぜか会社の金庫はほとんど空という有様だった。

 当然、馬場、猪木以下、多くのレスラーは幹部に不信感と不満を抱くようになる。そこで猪木は、選手会長だった馬場や上田馬之助に働きかけ、日プロの経理に関する不正を糾弾し、幹部追放を訴えるべく動き出す。まず腹心の公認会計士に日プロの内情を調べさせ、使途不明金が5000万円(現在の貨幣価値で約2億円ほど)にのぼることを突き止めると、所属全選手の署名を入れた幹部追放の嘆願書を作成。それは選手会の要求が受け入れられない場合、全員が退団するというものだった。

 しかし猪木のこの動きは、一部選手のリークもあり、事前に幹部に知られてしまうことになる。慌てた幹部はエース馬場を始めとした主力選手を懐柔し寝返らせ、「猪木は社内改革と称し、会社乗っ取りを謀った」として、幹部会で猪木の除名処分を決定。一説には、猪木が突き止めた使途不明金は、“行き先が知られてはならないカネ”であったと言われている。それをうやむやにするためか、幹部は猪木に乗っ取りの汚名を着せ、即座に永久追放としたのだ。

付き人だった藤波「見つかったら、半殺しでは済まない」

 そして1971年12月13日、日プロは記者会見を開いて猪木の除名処分を正式に発表。この時代のプロレス界、もしくは興行の世界は、ある意味、戦国時代や任侠の世界のようなものだ。親分が追放されたら、その子分も居場所はない。必然的に“根絶やし”されるかのごとく、猪木派のレスラーたちも次々と日本プロレスを離脱することになる。

【次ページ】 日本刀をコートの懐に忍ばせて殴り込み

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