プロレス写真記者の眼BACK NUMBER
「オレはプロレスになる。力道山の弟子になる」現役最年長レスラー・グレート小鹿(79)が師匠から授かった「最初で最後の褒め言葉」
posted2022/02/13 11:00
text by
原悦生Essei Hara
photograph by
Essei Hara
大日本プロレス会長のグレート小鹿(本名・小鹿信也)は、79歳にして現役のプロレスラーだ。小鹿は現在の北海道函館市、当時の亀田郡銭亀沢村で生まれ育った。
「家は貧乏だったから、田舎に埋もれたくない、東京行ってなんでもいいから一旗あげたい、オレ自身が何かやらなくちゃって思ったんですよ」
小鹿は昔を思い出すようにゆっくりと話し始めた。1958年、中学を出た小鹿は、サロマ湖に近い紋別郡湧別町の「北日本缶詰」という缶詰工場で働いていた。
「冬はカニ、春になればアスパラ、今でいうホワイトアスパラの缶詰を作っていた。今思うと、先見の明というものがあったなあ。でも、給料は残業しても5000円。その内3000円をおふくろに送っていた」
小鹿家では、自分の働いた給料の半分以上を実家に送るという暗黙の了解があったという。
「いくら働いても上がらない給料に、1週間ストライキして、職場に行かなかった」
結局、給料が上がらなかったので、小鹿は17歳で工場を辞めた。1959年の5月だった。
「東京なんて行かないで」号泣する姉を振り切って上京
「手元には2000円しかなかったが、湧別から遠軽駅まで歩いて行って、東京までの電車の切符を買った。1500円だったかな。特急券が300円だったから、200円しかポケットに残らなかった」
東京に行く前に実家に立ち寄って、母親に上京すると告げた。バスは片道20円。
近所に嫁いでいた姉に「東京なんて行かないで」と泣いて止められた。小鹿はそれを振り切って走るように家を出た。姉は小鹿を追いかけて海辺を走って来たという。
「オレがちょうどバスに乗ろうとした時、道がでこぼこだったから姉がそこにヒザをついて倒れ込んだ。映画みたいなシーンだったけれど、本当だよ」
小鹿のポケットには160円しか残っていなかった。
「青函連絡船の普通は3等だから、たばこの煙と酔っ払いの酒の匂いで我慢できなかった。嫌だったので車掌に話して、100円払って、ぽつんとイスに座った。その連絡船に、横綱だった千代の山が偶然乗り合わせていた。テレビがなかったから顔は知らなかったけれど、名前は知っていた」
第41代横綱・千代の山は北海道出身だった。
「目の見えない親父がラジオを耳に当てて応援していた。また聞きで相撲というものを知ったんだ」
どこかの駅の駅長をやっていたという千代の山の後援者が、体が大きかった小鹿を見つけて近寄ってきた。
「あんちゃん、どこ行くんだ? 東京は怖いところだぞ。横綱の千代の山、知っているだろう。断髪式やって、親方になって、後援者に挨拶に来てちょうど今、帰るところだ。あんちゃん、ものすごくついているよ」
なにがついているのか、小鹿にはひとつもわからなかったという。こんな偶然の横綱との出会いが、小鹿を相撲取りにしてしまう。小鹿は当初、埼玉の叔父を訪ねるつもりだった。
「おふくろの弟が埼玉の川口で『魚蔵』という魚屋をやっていた」
だが「オレんとこ来い」と千代の山に言われてしまう。