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“4月で80歳”グレート小鹿はなぜ社会貢献に情熱を注ぎ、今もリングに立ち続けるのか「結局、オレもプロレスバカなんだね」

posted2022/02/13 11:02

 
“4月で80歳”グレート小鹿はなぜ社会貢献に情熱を注ぎ、今もリングに立ち続けるのか「結局、オレもプロレスバカなんだね」<Number Web> photograph by Essei Hara

1995年3月、横浜文化体育館での大日本プロレス旗揚げ戦でマイクを持つグレート小鹿

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原悦生

原悦生Essei Hara

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Essei Hara

1995年に大日本プロレスを旗揚げして以来、さまざまな創意工夫で存続の危機を乗り越えてきたグレート小鹿。「ただ試合をして、儲かった、損をしたの時代は終わりです」。そう語る小鹿が、80歳を目前にした現在もリングに上がり続ける理由とは。(全3回の3回目/#1#2へ)

 27年前、グレート小鹿は大日本プロレスを旗揚げした。1995年3月16日、横浜文化体育館だった。

 小鹿は88年に全日本プロレスのリングで引退した。そのときは、もうプロレスには一切関わることがないと思っていた。

「天龍(源一郎)とか坂口(征二)から連絡が来るんですよ。『元気?』『パチンコ儲かりますか、今度飲みましょうよ』って。誘っているわけじゃないんでしょうけど、天龍なんか3日もしないうちにまた、電話してきた」

 義理というか、頼まれると断れない小鹿がいた。天龍らが立ち上げたWARには、日程のコースを切る人がいなかった。

「忙しいって言ったら、天龍に『土日だけでもいいから手伝ってくれ』って言われて。そうしたら今度は、切符が売れないからコースを切った責任を取って、営業も行ってくださいよ、って(笑)。バカなこと言ってんじゃないよ。結局、営業もやらされた」

 小鹿はあきれたように話すが、続きはすぐに来た。

運転資金がなくなり毛ガニを売ったことも

 今度はケンドー・ナガサキ(桜田一男)が「話聞いてくださいよ。困っていることがあるんですよ」と連絡してきた。小鹿はラーメンを食べながら話を聞いた。

「SWSから3つに分かれたでしょう。ナガサキはNOWを始めたが、タイガー・ジェット・シンらを使っても儲からなくて、タニマチから借金のカタにリングまで取られてしまった」

 小鹿はナガサキに請われて、3000万円の融資を受ける話をまとめた。3000万円で利子なし。それで鴨居に道場を作った。ナガサキには「やっぱり小鹿さんに来てもらってよかった」と感謝された。

「そうしたら1週間後、急に『やっぱり2000万円しか貸せない』という。もう工事代も払って、サイコロは振っちゃったから運転資金がない。どうしたと思います?」

 小鹿は少し間を置いた。

「1994年の暮れ、カニ売ったんですよ。毛ガニをね。これが売れて。6人も7人も社員を雇っているんだから、給料は払わなくちゃいけないでしょう」

 しかし選手はナガサキだけだから、マスコミもなかなか書いてくれない。そのうち「今度は小鹿さん、リング上がって試合してよ」という話になった。

「7年もブランクがあるし、最初は断ったんだけどね。『週刊プロレス』にも毎週書いてもらった。“コスプレ社長の七変化”とかね。コスプレだってイヤイヤやったのが、話題になって、今につながっている」

【次ページ】 NPO法人を設立「何か社会に貢献しなければ」

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