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「小鹿、早く帰ってこい。会社を改革しよう」“プロレス界の生き字引”グレート小鹿がアントニオ猪木と飲み明かしたLAの夜

posted2022/02/13 11:01

 
「小鹿、早く帰ってこい。会社を改革しよう」“プロレス界の生き字引”グレート小鹿がアントニオ猪木と飲み明かしたLAの夜<Number Web> photograph by Essei Hara

ヒールとして人気を博したグレート小鹿と大熊元司の「極道コンビ」。アメリカでは「ライジング・サンズ」の名称で活動した

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原悦生

原悦生Essei Hara

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Essei Hara

10代で大相撲の出羽海部屋に入門し、紆余曲折を経て力道山の弟子となったグレート小鹿は、師匠の死後、遠くアメリカの地でヒールとして活躍する。現地ファンの心をつかんだミル・マスカラスとの抗争や、アントニオ猪木とプロレス界の未来について語り明かした「ロサンゼルスの夜」に迫る。(全3回の2回目/#1#3へ)

 1967年、グレート小鹿は大熊元司と共にアメリカに行くことになった。2人は後に「極道コンビ」と呼ばれるタッグチームを結成する。小鹿は北海道の田舎から東京に出て来たのに、今度はアメリカだ。もちろん、英語なんてまったく喋れなかった。

「アメリカでは先輩を立ててどうのこうの、っていうのはなかったな。彼女は作ってもいいけれど、拳銃持っているから撃たれるぞ、って忠告された」

 9月末から10月初め、テネシー州ナッシュビルがアメリカでの最初のエリアだった。

「1つ殴られたら、3つ殴り返すくらいの気持ちで行ったからね。相手のあんちゃんがビビっちゃって、何もしてこない。それじゃ、試合にならないからやりたいようにやった。悪いことしたら『ブー』でしょう。なんだ、この『ブー』ってのは、と思ったね」

 小鹿に向けられた観客のブーイングも、裏を返せばそれだけヒールとして人気ということだった。

 小鹿のビザは、スポンサーがいればどこでも働けるという種類のものだった。

「ニック・ラッシュというプロモーターだったが、よくケンカしましたよ。お前はいくらもらっているんだと、レフェリーが聞くんですよ。100ドルと答えると、相手は300ドルもらっているって」

 面白くないから、小鹿はプロモーターに直談判した。

「もっと『ハイ』にしろ、なんて片言の英語で交渉して上げてもらったけれど、ほんの少しだけだった。こんなに金くれないんだったらやらない、と言うと『ネクスト』って。でも結局、上がったのは微々たるものだったよ」

 その年11月、大雪で車が走れなくなり、試合はキャンセルが続いた。

「ニューヨークに行って、もうプロレスをやめようと思ったけれど、ビザの関係でダメだった。各地のプロモーター同士が話して、ビザを有効に使っていたんだね」

守られなかった「1週間500ドル」の約束

 1968年は4月からジョージア州アトランタに行った。1ドル360円の時代だったから、食事はワンコインで済ませることができた。

「ジョージアでちょっと儲かったけれど、クマ(大熊)さんが日本に帰っちゃって。大熊さんはすごかったですよ。試合のギャラはチェック(小切手)でもらうんだけれど、大熊さん1回も現金に換えていなかった。冷蔵庫の冷凍室にチェックをそっくり全部入れていた。プロモーターが『誰か現金に換えていない奴がいる』っていうんだけど、オレじゃないのよ。そうしたら大熊さんだった。換え方を知らなかったんだろうな。通帳も持ってなかったし」

【次ページ】 模造拳銃やナイフを並べて「アイツ、やばいぞ」

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