セリエA ダイレクト・レポートBACK NUMBER
中村俊輔はサンプドリアに入るはずだった? 名波浩や柳沢敦獲得の敏腕は今やインテル復活の立役者 <新たな日本人発掘目指すSDも>
text by
弓削高志Takashi Yuge
photograph byAFLO
posted2022/02/01 17:00
2003年にサンプドリアに移籍した柳沢敦。日本人のセリエA挑戦には敏腕ディレクターの存在があった
後年、地元の有力紙が明かしたところによると、GDだったマロッタは02年4月時点で、横浜F・マリノスとの間にレンタル料20万ドル、保有権買取オプション額250万ユーロという条件をまとめており、ジェノバの一部関係者の間では、中村はすでに実質サンプドリアの選手だと思われていた。
ただし、サンプは当時セリエBで昇格争いの渦中にあり、万が一昇格を逃した場合の経営リスクを鑑みたマロッタが、最終的に獲得を見送ったとされている。
移籍市場の分岐点はウディネーゼのジーコ獲得に
その後、マロッタはメルカートでも指折りの目利きとして一気に頭角を現した。彼曰く、セリエAのみならず欧州サッカーの移籍市場の過去と現在を大きく分ける分岐点は、移籍の最終決定権を選手の署名に定めた81年のイタリア国内法整備でも、95年のボスマン判決でもなく、ウディネーゼによる83年夏の“ジーコ獲得”だという。
なぜ、北の地方クラブに過ぎないウディネーゼが、ユーベやローマ、ナポリを出し抜き、大物ジーコを獲得できたのか。
その秘密は、当時のSDフランコ・ダル・チンが約束した60億リラの高額年俸と、その捻出方法にあった。
ダル・チンはジーコの肖像権利用と引き換えに、経営をまったく異にするスポンサーに年俸の半分近くを負担させるウルトラCを編み出した。あのとき、クラブの財布に革新が起きたのだ。
「あの移籍こそが時代の変わり目、未来の補強だった。サッカーのビジネス化はあそこが出発点だった」
マロッタは、今でもダル・チンを業界の大先輩として敬愛する。サンプドリア時代に“ジーコの愛弟子”という触れ込みだった柳沢をリストアップしたとき、伝説のスポーツディレクターの成功に倣い、“日本という未開市場と新たな時代を切り開くのだ”という気概が、彼の心を奮い立たせたのではないだろうか。
移籍市場のホテルに警察が介入してきたことも
人当たりと恰幅がよく、おおらかで泰然としたマロッタの真の顔は、昔気質を重んじる筋金入りの勝負師に他ならない。
故郷のクラブで、フロント見習いとして働き始めたのは20歳のとき。FIGC(伊サッカー連盟)が80年に開設したスポーツディレクター認定講習の第1期生であり、彼の同期にはルチャーノ・モッジ(当時ラツィオ)やセルジオ・セッコ(ユベントス)ら曲者同業者が名を連ねる。