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《真相》巨人・松井秀喜の背番号が一茂の「36」ではなく「55」になったワケ…長嶋監督は「何番でもいいですよ」<身長2mの19歳秋広が継承>
text by
鷲田康Yasushi Washida
photograph byJIJI PRESS
posted2022/01/14 17:03
1992年12月25日、入団発表での松井秀喜や長嶋監督
長嶋監督「その番号を松井が自分の番号にすればいい」
背番号「55」にターゲットを絞ると、その番号に決まるようにまず長嶋監督に会って「松井の背番号は『55』でどうでしょうか」と提案した。長嶋さんは背番号には無頓着で「何番でもいいですよ。その番号を松井が自分の番号にすればいいんだから」と快諾してくれた。
そして次は球団フロントの説得だった。
当時の保科昭彦代表に「長嶋監督の了承はいただいているのですが……」と背番号「55」案を話すと、「監督が了解しているのなら」とこれも簡単に承諾してくれた。
何だか拍子抜けするくらいに簡単に松井さんの背番号は「55」に決まってしまったのである。
すぐに金沢で待機していたカメラマンに連絡して、松井さんの実家に押しかけ、用意していた背番号「55」のユニフォームを着てもらって写真を撮影。それが翌日のスポーツ報知の1面を飾ることになる。
松井「僕は訳が分からなかったけど、そういうことだったんだ!」
後に松井さんにこのときの経緯を話すと「何で報知のカメラマンがいきなり背番号『55』のユニフォームを持ってきたのか、僕は訳が分からなかったけど、そういうことだったんだ! 本人が何も分からないのに撮る方も撮る方だけど、撮らせる方も撮らせる方だよね!」と大笑いしたのを覚えている。
ただこの「55」という背番号にはもう1つ、ある特別な思いがあった。それまでの日本のプロ野球の通例では、背番号は選手の成長とともに、若い番号に変わっていくものだった。
「でもメジャーではこれくらいのデカい番号の一流選手がゴロゴロいる。できれば将来、一流になってもこの番号を変えないで欲しい」
2年ほどして、いよいよ主力選手への道を本格的に歩み出した松井さんにこうお願いしたことがあった。
「僕もそのつもりですよ。この番号は気に入っています」