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《野球殿堂入り》プロ5年目の“失望と転機”…山本昌(通算219勝)を救った2人の大恩人とは「名前を聞くと、今でも背筋がピンと伸びる」
posted2022/01/15 06:00
text by
小西斗真Toma Konishi
photograph by
Koji Asakura
今年度の野球殿堂入りの通知式が、14日、行われた。投票の結果、プレーヤー表彰で基準を満たしたのは元中日の山本昌広(山本昌)さんとヤクルトの高津臣吾監督だった。
山本さんは史上最年長の50歳で登板した「おじさんの星」であると同時に、通算219勝を挙げた名左腕。現役最多が石川雅規(ヤクルト)の177勝で、現時点では「最後の200勝投手」でもある。一方で200勝達成者の中ではただ一人「プロ1年目に登板できなかった投手」であることでも知られている。初登板が3年目。初勝利は5年目だった。
“非エリート”の転機「フロリダで1年間、鍛えてこい」
エリート集団の「昭和名球会」の中では異質の存在。そのまま朽ちていてもおかしくなかった野球人生の潮目が、大きく変わったのは5年目の野球留学である。1988年の中日は、フロリダ州のベロビーチで2次キャンプを行った。山本さんはそのメンバーには滑り込んだが、帰国することはできなかった。そのままフロリダにとどまり、提携していたドジャース傘下の1Aチームに合流するよう命令されたのである。
山本さんは引退翌年、テレビ番組の「アナザースカイ」(日本テレビ系)でベロビーチを再訪。人生が激変した「留学」を振り返っていたが、当時は決して望んだことではなく、激しく落胆したという。石にかじりついてでも、という意気込みで、開幕一軍を目指していたのである。「フロリダで1年間、鍛えてこい」という命令は、非戦力と位置づけられたことを意味するからだ。
「星野仙一という名前を聞くと、今でも背筋がピンと伸びる」
落ちこぼれから野球殿堂へ。転機となった「留学」に関わった2人は、山本さんの大恩人でもある。1人が命令の主、星野仙一監督。もう1人が現地で世話をし、指導したアイク生原(生原昭宏)さんだ。