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《真相》巨人・松井秀喜の背番号が一茂の「36」ではなく「55」になったワケ…長嶋監督は「何番でもいいですよ」<身長2mの19歳秋広が継承>
text by
鷲田康Yasushi Washida
photograph byJIJI PRESS
posted2022/01/14 17:03
1992年12月25日、入団発表での松井秀喜や長嶋監督
松井の背番号「55」には、少し筆者も絡んでいた
秋広の「55」が発表された時には、「まだ早いのではないか」という声があったのも事実だ。かつて同じ「55」を背負って、ついに巨人では結果を残せないままに日本ハムに移籍した大田泰示外野手(現DeNA)を思い出したファンも多かったかもしれない。
それだけこの「55」という番号には重みがあるということだが、それこそ松井さんが最初につけた時には、ある意味、何の深い意味もない、普通の番号だったのである。
実は松井さんが背番号「55」をつけるに至った経緯には、少し筆者も絡んでいた。
松井さんが星稜高校から巨人に入団することが決まったのが1992年のドラフト。4球団競合の末に、監督復帰が決まったばかりの長嶋茂雄監督(現終身名誉監督)が見事にくじ引きを引き当てて交渉権を獲得した。そのとき筆者は読売系列のスポーツ報知の巨人担当キャップという職にあった。
長嶋監督の誕生に松井さんの入団。スポーツ紙にとっては盆と正月が一度にやってきたような騒ぎだった。2人の話題を1面にすれば新聞は売れた。そこで長嶋監督がドラフトでくじを引き当て、サムアップした瞬間から、スポーツ紙的には次のニュースは松井の背番号、となった訳だ。
候補に上がった「36」と「55」の2つの番号
そのときの巨人の背番号で1桁台は欠番以外は主軸がつけていて、10番代、20番代の目ぼしい番号もすべて埋まっていた。もちろん高校を卒業したばかりの選手が、先輩の背番号を奪うわけにもいかないので、とにかく何か意味のありそうな空き番号を探すと、「36」と「55」という2つの番号が候補に上がってきた。
松井さんの高卒のホームラン打者というイメージは、巨人の大先輩でもある王貞治現ソフトバンク球団会長と重なる。その王会長といえば当時のシーズン最多本塁打記録55本である。しかも以前に台湾出身の中日・郭源治投手から「台湾では勝負事にはゾロ目が縁起がいい」という話を聞いていたので、「これしかないな」と感じたのだった。
ちなみに残った「36」は、長嶋監督の現役時代の「3」に因む番号として候補にしていたが、何と後に入団が決まる長嶋監督の長男・一茂内野手がつけることになる。