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“プロレス史を変えた男”ストロング小林が死去…タブーを破り、東スポが実現させたアントニオ猪木との「昭和の巌流島の決闘」 

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堀江ガンツ

堀江ガンツGantz Horie

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posted2022/01/10 11:02

“プロレス史を変えた男”ストロング小林が死去…タブーを破り、東スポが実現させたアントニオ猪木との「昭和の巌流島の決闘」<Number Web> photograph by KYODO

「昭和の巌流島の決闘」として語り継がれるアントニオ猪木(手前)とストロング小林の一戦(1974年3月19日、蔵前国技館)

「猪木の足が浮くほど…」伝説となった29分30秒の熱闘

 こうして異様な熱気の中で行われた猪木vs小林戦は、試合内容も素晴らしいものだった。“怒涛の怪力”と呼ばれた小林が、ベアハッグ、ハンマーロックなど、得意のパワー殺法で攻め込めば、猪木はねちっこい関節技やナックルパンチで応戦。そして最後は、小林の必殺カナディアン・バックブリーカーをリバース・スープレックスで切り返した猪木が、すかさずバックドロップ。そして、今でも語り草となっている、あまりの勢いで猪木の足が浮くほどのジャーマンスープレックスホールドで29分30秒の熱闘を制した。

 試合後、額から血を流しながらリング上で勝利者インタビューを受けた猪木は、「こんな試合を続けていたら、10年もつレスラー生命が1年で終わってしまうかもしれない。しかし私は、いつ何時誰の挑戦でも受ける!」という名言を残し、ファンのハートをガッチリとつかんだ。そして試合翌日、朝刊スポーツ紙は1紙をのぞく全紙が猪木vs.小林を一面で大きく扱い、日本プロレス分裂後の低迷から脱却することにも成功。猪木vs.小林は第1回「プロレス大賞」の年間最高試合賞も獲得し、プロレス界は“猪木時代”を迎えたのである。

ストロング小林が、日本人対決の流れを作り出した

 敗れた小林はこの試合後に渡米し、フロリダとニューヨークを転戦。そして同年12月12日、前回と同じ蔵前国技館で猪木に再挑戦したが、レフェリーストップで無念の連敗を喫してしまう。そしてこれを機に新日本にレギュラー参戦するようになり、1975年5月には正式に新日本に入団。猪木、坂口征二に次ぐナンバー3のポジションを得るが、徐々に長州力や藤波辰爾の後塵を拝すようになり、1981年に腰痛の悪化もあり戦線離脱。そのままリングには戻らず、1984年に現役を引退した。

 この猪木vs.小林をきっかけに新日本は一気に躍進。日本プロレス界のトップに立つようになった一方で、小林を引き抜かれた国際の人気は低迷し1981年に崩壊。両団体の運命を大きく分けることとなった。また、それまで各団体のマッチメイクは日本人vs.外国人中心が当たり前だったが、猪木vs.小林の成功がきっかけとなって、のちに日本人対決が主流になっていく大きな流れも作り出した。

 今年、新日本プロレスは50周年を迎え、プロレスリング・ノアとの対抗戦は大きな話題を集めた。新日本の隆盛も、他団体との闘いも、日本人対決も、すべて猪木vs.小林がその源流にある。そういった意味でもストロング小林は、間違いなく歴史に残るプロレスラーなのである。

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