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“プロレス史を変えた男”ストロング小林が死去…タブーを破り、東スポが実現させたアントニオ猪木との「昭和の巌流島の決闘」

posted2022/01/10 11:02

 
“プロレス史を変えた男”ストロング小林が死去…タブーを破り、東スポが実現させたアントニオ猪木との「昭和の巌流島の決闘」<Number Web> photograph by KYODO

「昭和の巌流島の決闘」として語り継がれるアントニオ猪木(手前)とストロング小林の一戦(1974年3月19日、蔵前国技館)

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堀江ガンツ

堀江ガンツGantz Horie

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 “怒涛の怪力”と呼ばれた元・国際プロレスのエース、ストロング小林が昨年の12月31日に亡くなっていたことがわかった。享年81。

 ストロング小林で思い起こされるのは、なんと言っても1974年3月19日に蔵前国技館で行われたアントニオ猪木との一戦だろう。「昭和の巌流島の決闘」と呼ばれたこの試合は、今も語り継がれる名勝負であっただけでなく、プロレス界の流れを大きく変えるほどの影響を与えた試合でもあった。このプロレス史に残る重要な一戦を振り返ることで、故人への追善としたい。

大物日本人対決がタブー視されていた時代

 まず、この一戦が実現に至るまでの当時のプロレス界の状況を整理しておこう。1971年末、猪木は会社乗っ取りの汚名を着せられて日本プロレスを追放され、1972年3月に新日本プロレスを旗揚げする。しかし、当初はテレビのレギュラー放送がなかったため、その半年後に日本テレビの全面バックアップを受けて旗揚げしたジャイアント馬場の全日本プロレスや、TBSのレギュラー放送をもっていた国際プロレスの後塵を拝していた。

 旗揚げから1年後の1973年4月、新日本にもNETテレビ(現・テレビ朝日)のレギュラー放送が始まりようやく軌道に乗り始めたが、団体の力はまだまだ弱かった。そんな時に浮上したのが猪木vs.小林戦。TBSで顔と名前を売ったストロング小林との一戦は、新日本にとって是が非でも実現させたい試合だった。

 しかし当時は、大物日本人対決がタブー視されていた時代。1954年に行われた力道山vs木村政彦が凄惨な試合となり、世間から非難が集中し一時的にプロレス人気が下降した一件があって以降、大物日本人対決は半ば封印されていたのだ。ましてや団体の枠を超えたトップ同士の対決となると前代未聞のこと。その実現するはずがない試合が実現したのは、国際プロレス内部での人間関係の軋轢、ストロング小林とグレート草津の確執が大きな原因のひとつだった。

前エースだったグレート草津との確執

 グレート草津は、1968年にTBSで国際プロレスの放送がスタートした際、若きエース候補として売り出された元ラグビー日本代表のレスラー。しかし定期放送初回の大事なメインイベントで、“鉄人”ルー・テーズのバックドロップで失神。そのまま試合続行不可能になる失態を演じ、「エース失格」の烙印を押されてしまう。

 その後、絶対的な日本人エース不在が続く中、1971年にようやく誕生した国際の新しいエース、それがストロング小林だった。しかし、このエース交代劇が不和を生むこととなる。エースから降格後、国際のマッチメーカー(現場監督)となった草津は、ジェラシーからか新エース小林をたびたび冷遇。小林は、草津のカード編成に不満を抱くようになっていった。

【次ページ】 東スポが実現させた“前代未聞”の猪木vs.小林

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