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“プロレス史を変えた男”ストロング小林が死去…タブーを破り、東スポが実現させたアントニオ猪木との「昭和の巌流島の決闘」 

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堀江ガンツ

堀江ガンツGantz Horie

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posted2022/01/10 11:02

“プロレス史を変えた男”ストロング小林が死去…タブーを破り、東スポが実現させたアントニオ猪木との「昭和の巌流島の決闘」<Number Web> photograph by KYODO

「昭和の巌流島の決闘」として語り継がれるアントニオ猪木(手前)とストロング小林の一戦(1974年3月19日、蔵前国技館)

猪木と馬場へ挑戦状を送りつけた小林

 そんな小林と草津の確執は、ほどなくして他団体にも知られることとなり、新日本が小林の引き抜きを画策。のちに“過激な仕掛け人”と呼ばれる営業本部長の新間寿が小林の自宅に日参し、口説き落とすことに成功する。そして小林は1974年2月13日に単独で記者会見を開き、国際プロレスを離脱してフリーとなることを宣言。同時に猪木と馬場へ、内容証明付き郵便で挑戦状を送りつけた。

 この小林の挑戦を猪木はすぐさま受諾。一方、馬場はこれを黙殺した。じつは、この猪木と馬場のふたりに挑戦状を送るという行動自体、新日本が小林にやらせたものだった。新日本は、猪木vs.小林を実現させるだけでなく、「猪木は堂々と挑戦を受けたが、馬場は小林の挑戦から逃げた」という負のイメージも同時に植え付けようとしたのだ。

 こうして決定した猪木vs.小林だったが、実現に至るまでここからさらに難航した。国際プロレスが小林の契約違反を主張し、試合の中止を求めてきたのだ。これを解決するには国際に違約金を支払わなければならなかったが、当時の新日本は旗揚げ後1年の苦境期間に約1億円の借金を抱えており、違約金を支払ってまで試合を実現させる経済力がなかった。

 そのため夢の対決は暗礁に乗り上げかかったが、この窮地を救ったのが東京スポーツ新聞社だった。東スポは当時のお金で1000万円と言われる移籍金を国際に支払い、小林を自社の所属レスラーとすることで猪木戦を実現させたのである。

東スポが実現させた“前代未聞”の猪木vs.小林

 なぜ、東スポがそこまでして猪木vs.小林を実現させようとしたのか。それはプロレス界の状況が関係していた。当時、力道山が作った日本プロレスが分裂し、馬場の全日本と猪木の新日本に分かれたことで、プロレス人気自体が下火になっていたのだ。プロレスの人気が新聞の売り上げに直結していた東スポは、そこに危機感を抱いていた。猪木vs.小林という夢の対決をプロレス人気復活の起爆剤とし、新聞の売り上げ向上を見込んで実現させたのである。

 新聞社がレスラーを自社の所属とする、そんな前代未聞の“裏技”まで使って実現させた猪木vs.小林はすさまじい反響を得た。力道山vs木村政彦以来20年ぶりとなる超大物日本人対決実現に日本中が沸き立ち、蔵前国技館は超満員札止めとなる1万6500人を動員。3000人以上のファンがチケットを買えずに帰るほどの人気を集めた。

【次ページ】 「猪木の足が浮くほど…」伝説となった29分30秒の熱闘

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