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箱根駅伝2区で“17人抜き”した男・村澤明伸30歳の今「(大迫傑と)どんどん差は開いていく」「医師の指示で、一度完全に走るのをやめた」
posted2022/01/09 11:04
text by
加藤康博Yasuhiro Kato
photograph by
AFLO
「高校、大学、実業団と一緒のチームで過ごしたり、道が分かれたり。そうしていく中で私と彼(大迫傑)の結果はどんどん差が開いていく。正直、いやでもそれは目に入ります。彼の活躍は自分を正しく律してきた結果であり、尊敬の気持ちはずっと持っています。アメリカに拠点を置くなど、今まで日本人がやってこなかったこともやってきたわけですからね」
大迫傑について質問すると、村澤明伸は静かにこう語った。
高校時代は1学年下の大迫とともに全国高校駅伝で佐久長聖高校を初優勝に導いた。東海大入学後も駅伝やトラックで学生長距離界のエースとして活躍し、特に11年の箱根駅伝2区で、チームを20位から一気に3位へと引き上げた勇姿は今も多くのファンの目に焼き付いていることだろう。トラックでも11年の日本選手権10000mで2位。早稲田大学の大迫とともに、大学卒業後も日本の長距離・マラソン界を引っ張っていく存在と見られていた。
しかし、その後、村澤は長らく故障に苦しんだ。大迫が活躍した東京五輪は代表権を獲得できず、テレビで観戦するしかできなかった。
「ただ、私にも私なりに積み上げてきたものがあります。それはいいとか悪いとかいう問題ではないと思うんです。もちろんオリンピックは見ていて悔しかったですけど、その気持ちがある以上、まだ自分はやれるはず。今はただ自分を信じたいと思います」
19年9月に行われた東京五輪マラソン代表選考レース、マラソングランドチャンピオンシップ(MGC)。村澤は公表はしていなかったものの、その1年以上前からコンディションを崩しており、「今、振り返れば走る前からオリンピックを目指せるような状態ではなかった」と話す。だが結果への言い訳にしたくなかったからか、その前後の時期、自身の体について詳細に口にすることはなかった。
ジョグですら疲れるように…
当時のことについて口にするようになったのは2021年、東京五輪の直前になってからだ。最初に異変を感じたのは日清食品グループに所属していた2017年春。ペースを上げようとすると意識と体の反応にギャップが生まれる瞬間があったという。
「その時は一瞬だけでしたので、まったく気にならなかったです。後になって練習日誌を見返して“ああ、ここの時から兆候があったんだな”と気がついたくらいで」