箱根駅伝PRESSBACK NUMBER
箱根駅伝2区で“17人抜き”した男・村澤明伸30歳の今「(大迫傑と)どんどん差は開いていく」「医師の指示で、一度完全に走るのをやめた」
text by
加藤康博Yasuhiro Kato
photograph byAFLO
posted2022/01/09 11:04
東海大時代、2010年、11年、12年と2区を走った村澤明伸(写真は1年時、この年も10人抜きを果たしている)
だが症状は頻度を増して現れるようになる。イメージ通りにペースが上がらないため、走りに力みが出て、普段なら楽に走れるペースでも、楽に走れない。18年8月には完全に“走りが崩れた”と自覚した。
原因は分からない。今、思いつくのは細かい故障を繰り返す中、痛んだ場所をかばい、次第にフォームのバランスが崩れたのではないかということだけで、それも定かではない。走る動作が常にフルパワーを使わなければできなくなり、ジョグですら疲れるようになった。そこからはずっと慢性疲労にさいなまれ続けた。
19年1月のニューイヤー駅伝では、3区13.6kmで区間34位。箱根の例を挙げるまでもなく、駅伝で無類の強さを見せていた村澤にしては信じられない結果に終わっている。直後に所属していた日清食品が活動の縮小を発表。MGCを控えていた村澤は所属が継続されたが、心中は穏やかではなかった。そして走りを取り戻すことが出来ないまま同年9月のMGCを迎える。
「そもそもこの時点で練習が積めていませんでしたので、体よりメンタルがきつかったです。“自分の力を発揮して、オリンピックを目指したい”という前向きな意欲を持ってレースに臨めず、“結果を出さなければいけない”と自分で自分を追い込んでしまっていました」
2年前の手術「それでもスピードが上がらない」
MGCが終わってすぐ、股関節周辺の損傷と診断され19年10月にその縫合手術に踏み切る。思い通りに走れない状態で引退しては、陸上が嫌いになる。原因らしきものがわかった以上、改善に踏み出すことにためらいはなかった。
手術は問題なく成功し、20年の秋から記録会に姿を見せ出した。明るい表情も戻ってきたようだった。しかしそれも束の間のことで、21年から歩みはまた停滞していく。スピードが求められる3000mでも彼本来の大きなストライドは見られず、不調の様子は明らかだった。それでも声をかけると、笑顔で前向きな言葉を発してくれた。
「少しずつ戻ってきていますよ。大丈夫です、焦らずにやっていきます」
だが、現在も所属するSGホールディングスに移籍をして迎えた21年6月。5000mの記録会に出場した村澤は14分59秒33という高校1年生から本格的に陸上を始めて以来、走ったことのないタイムを出してしまう。