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野球クロスロードBACK NUMBER
《沢村賞右腕》元ソフトバンク攝津正(39)が今明かす“悩んだ27歳のプロ入り”と“苦節のラスト3年”「うまくいき過ぎたんじゃないかな」
text by
田口元義Genki Taguchi
photograph byHideki Sugiyama
posted2022/01/04 11:04
09年に最優秀中継ぎ賞、12年には沢村賞を獲得したホークスの元エース右腕・攝津正
転向1年目に14勝。2年目の12年には17勝5敗で最多勝、最高勝率のタイトルを獲得。そして、先発ピッチャーの最高栄誉である沢村賞にも選ばれた。このタイトルと最優秀中継ぎを手にしたのは、今現在でも攝津ただひとりである。
16年以降は「試行錯誤の連続でした」
中継ぎとしてフル回転し、先発としても5年連続で2桁勝利と、攝津は異なるポジションで絶対的な存在となった。それだけに、周囲は不思議に思うはずなのだ。
あの攝津が、なんでああなった、と。
結論から言えば、16年から現役最終年となる18年までの3年間で、攝津はたったの4勝しか挙げられなかった。
本人をもってしても原因を絞り切ることはできない。ただ、度重なる故障によりパフォーマンスが低下していったことだけは理解している。
エースとして君臨している間からそうだった。12年の開幕前にはヘルニアの手術をし、12年のポストシーズン中には足首の靱帯を損傷しながらも投げ切った。他にもひざやアキレス腱を痛めたりと、常に体のどこかに不安を抱えながら投げていたのである。
現役時代の攝津は、それらを一切、自分の口からは公にしてこなかった。理由はひとつ。「それでも投げられたから」だ。
「よほどのことではない限り、リハビリには行きたくなかったんですね。『怪我が原因でパフォーマンスが落ちた』って言い訳みたいに思われたくもなかったし」
しかし、そのことによって、攝津のピッチングメカニズムに狂いが生じてきたことも事実だった。ほんの少しのズレが次第に大きくなり、修正が困難になってきたのが16年あたりからだと推測すれば、整合性が取れる。
「自分のイメージと体の動きが合わないというか、そういうのは確かにありましたね。16年以降はずっとそんな感じです。トレーニング方法とかいろんなところを変えてみたり、試行錯誤の連続でしたね。でも、プロは数字を残せなかったら使われない世界なんで。周りの目は全然気にしないタイプではありますけど、人からどんな目で見られてもパフォーマンスがよくなるわけではないし、現状は自分でしか打開できないという気持ちではやっていましたね」
感化された“松坂大輔の姿”
16年以降は二軍での生活のほうが圧倒的に長かった。だからといって、必ずしもマイナスばかりではなかったと、攝津は言った。
プラス要素とは、ベテランの生き様に触れることができたことだ。
自分と同じ、いや、それ以上に苦しんでいる選手に松坂大輔がいた。