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ぶら野球BACK NUMBER
30歳高津臣吾(ヤクルト)は迷っていた「オレ、このままでいいのかな」右ヒジ痛、伊藤智仁との激戦…“2番手の男”がメジャー挑戦するまで
posted2021/12/25 11:04
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph by
Sankei Shimbun
去り際の熱いドラマを描いた『現役引退――プロ野球名選手「最後の1年」』(新潮新書)の著者が、そんな高津のプレイヤーとしての「最後の1年」までを振り返る(全2回の1回目/後編へ)。
「ボクは中学生からだから、ファミコンやってる歴10年かな。“ファミコンおたく”と呼んでください」
これは『週刊ベースボール』92年7月13日号掲載、「究極のID野球 ファミコンで実戦をシミュレート 高津臣吾」記事内のコメントである。カーテンを閉め切った部屋で電気を消し、キャップをかぶり、ナイター気分を演出してスーパーファミコンの『スーパーファミスタ』をプレイする。
「ミーティングの復習といったら言い過ぎですが、相手チームのラインナップを並べて、寝る前に少しやると、不思議なものでリラックスできたりしまして」なんつって笑う23歳の高津青年。ドラフト3位でヤクルトに入団して2年目、この年は前半戦に先発起用され5勝をあげたが、チーム14年ぶりリーグVの瞬間は若手主体の黒潮リーグに派遣されていたため、テレビの前で野村克也監督の胴上げを見た。
ずっと“2番手投手”だった
アマチュア時代の高津は、常に2番手投手だった。広島工業ではプロ注目の超高校級エース上田俊治がいて、亜細亜大では90年ドラフト会議で史上最多タイの8球団から1位指名される小池秀郎がいた。自著『ナンバー2の男』(ぴあ)では、高校時代にアンダースロー転向した際の気持ちをこう語る。
「上田が本格派だったので、同じことをやっても追いつけないと判断したのかもしれない。同じ上手投げで差が開くより、横から投げて特徴を出したかった。でも、どこかで諦めてた部分もあったのかもしれないですね。諦めたか、割り切ったか、開き直ったか。その頃に思っていたのは、2番手に入りたい、その座を守りたいということ」
その男は決して世代のトップランナーではなかったが、先頭走者と自分の立ち位置を冷静に見極められるクレバーさを持っていた。一発勝負の高校野球では、チームは甲子園に出場しながら最後までそのマウンドには上がれなかったが、大学野球は3回戦制なので、2番手に入っていればいずれ先発のチャンスが回ってくる。大学2年時にアンダースローから、サイドスローにフォームを変えて自分なりに手応えもあった。そして、コツコツと決め球のシンカーを磨いていくのだ。