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ぶら野球BACK NUMBER
高津臣吾36歳と38歳…2度の“戦力外通告”も「まだやりたい気持ちはある」アメリカ、韓国、台湾…43歳で“現役最後のシンカー”を投げるまで
posted2021/12/25 11:05
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph by
Hideki Sugiyama
20年ぶりの日本シリーズ優勝を果たしたスワローズ。チームを率いたのは高津臣吾監督(53歳)。高津監督は90年のドラフト3位でヤクルトに入団、絶対的守護神として4度の日本一をもたらした。さらにアメリカ、韓国、台湾と海外でプレー。
去り際の熱いドラマを描いた『現役引退――プロ野球名選手「最後の1年」』(新潮新書)の著者が、そんな高津のプレイヤーとしての「最後の1年」を振り返る(全2回の2回目/前編へ)。
去り際の熱いドラマを描いた『現役引退――プロ野球名選手「最後の1年」』(新潮新書)の著者が、そんな高津のプレイヤーとしての「最後の1年」を振り返る(全2回の2回目/前編へ)。
35歳の挑戦――。
言葉にすれば夢に溢れているが、いざ動き出すと現実は厳しい。“日本一のクローザー”と言われたあの男にしても、そうだった。2004年1月半ば、高津臣吾はロサンゼルス郊外にある大学のグラウンドにいた。MLBのスカウトに向けて、公開トライアウトを行ったのである。前年11月にFA宣言してメジャー移籍を目指すも、どこからもオファーがなく、約30人のスカウトの前で投球を披露することになった。
例年ならまだキャンプインもしていないこの時期に、Tシャツ短パン姿で通算260セーブ(03年終了時)もあげた投手が、アメリカの人気もほとんどないマウンドに立つ。まさにゼロからの再スタートだったが、ホームベースの後ろでは見慣れたキャッチャーミットが待ち構えている。その球を受けるのは、なんとこのために渡米した盟友の古田敦也だった。
さらに元・同僚の石井一久、友人の長谷川滋利ら当時のメジャーリーガーたちも応援で駆け付けた。そして、35歳のサイド右腕が力を振り絞り約50球を投げきった2日後、シカゴ・ホワイトソックスから待望のオファーが届く。ヤクルトから提示された契約の半額近い、年俸100万ドルの1年契約(2年目のオプション付き)だったが、高津は新天地での挑戦を決断する。
「外国人はいける自信があるんですよ」
ちなみに『週刊ベースボール』99年12月20日号のインタビューで、「バッターの得手不得手はある?」と聞かれた高津はこんな興味深い返答をしている。