- #1
- #2
ぶら野球BACK NUMBER
30歳高津臣吾(ヤクルト)は迷っていた「オレ、このままでいいのかな」右ヒジ痛、伊藤智仁との激戦…“2番手の男”がメジャー挑戦するまで
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph bySankei Shimbun
posted2021/12/25 11:04
1990年ドラフト3位でヤクルトに入団した高津臣吾。野村監督に命じられ、“遅いシンカー”を習得。守護神としてヤクルトに4度の日本一をもたらした
前年から右ヒジ痛を抱えていたため春先から出遅れ、抑えの座を伊藤智仁に奪われて、中継ぎで投げる日々。後半に復調して西武との日本シリーズでは胴上げ投手になって意地を見せるも、翌98年はわずか3セーブに自身ワーストの防御率5.56、二軍落ちも経験する絶不調のシーズンを送る。
プロ8年目の30歳。大卒で社会に出て、ようやく自分の仕事にも慣れ、同時にそんな環境に微かなマンネリも感じる年齢だ。いつの時代も30男を襲う「オレ、このままでいいのかな……」症候群。高津は98年オフ、アメリカへ飛んだ。現地のドクターに右ヒジを検査してもらい、“ネズミ”(遊離軟骨)がいくつか見つかったが最終的にメスを入れず、リハビリでのヒジの強化を選択。若松勉新監督を迎えるシーズン開幕に間に合わせたい気持ちが強かった。中途半端では帰れない。クリーブランドで2カ月、ユマで1カ月、自身を再生するトレーニングに励んだ。ときに焦り、でも腐らず、高津は復活してみせる。
99年から03年までの5シーズンで計162セーブ。その間、三度の最優秀救援投手賞を獲得。01年には自身4度目の日本一にも輝き、投手として全盛期を迎える。通算100セーブと150セーブは阪神で指揮を執っていた恩師・野村監督の目の前で決めた。03年にはプロ野球初の通算250セーブを記録。オフには佐々木主浩とともに名球会入りも果たした。規約改正で新たに日米通算250セーブが入会資格に加わったのだ。気がつけば、「ナンバー2の男」は、球界を代表する抑え投手の座にまで登り詰めていた。あらゆるものを成し遂げ、その先には球団のレジェンドとして輝かしい未来が待っているだろう。誰もがそう思った。
だが、35歳のオフ、高津臣吾は意外な決断を下す。FA権を行使しての「メジャー挑戦」を表明するのである。<後編に続く>
記事内で紹介できなかった写真が多数ございます。こちらよりぜひご覧ください。