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ぶら野球BACK NUMBER
30歳高津臣吾(ヤクルト)は迷っていた「オレ、このままでいいのかな」右ヒジ痛、伊藤智仁との激戦…“2番手の男”がメジャー挑戦するまで
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph bySankei Shimbun
posted2021/12/25 11:04
1990年ドラフト3位でヤクルトに入団した高津臣吾。野村監督に命じられ、“遅いシンカー”を習得。守護神としてヤクルトに4度の日本一をもたらした
野村監督からの“命令”「遅いシンカーを投げろ」
広島に生まれ育ち、山本浩二に憧れた生粋のカープ男子も、プロに行ければどこでもいいと割り切った。ヤクルトのドラフト3位入団だったが、当初は同じく大卒投手の1位岡林洋一、2位小坂勝仁の方が即戦力で期待されていた。同期の岡林が3完投と獅子奮迅の活躍をした92年の西武との日本シリーズも、メンバーから外れる屈辱。それでも、背番号22は腐らなかった。ときに焦っても、決して腐らなかったのである。直後の92年秋季キャンプで、西武の潮崎哲也のような「150キロの腕の振りで100キロの遅いシンカーを投げろ」と野村監督から命じられると、黙々とその習得に励んだ。
プロ初セーブは3年目の93年5月2日巨人戦(東京ドーム)だ。瞬間最高視聴率39.7%を記録した日本中が注目する「のちの大打者・松井秀喜がプロ第1号アーチを放った試合」は、同時に「のちの名クローザー高津がプロ初セーブをあげた試合」でもあったのだ。この年は20セーブをあげ、西武にリベンジを果たす日本シリーズでは胴上げ投手に。マウンド上で歓喜の雄叫びをあげ、女房役の古田敦也と抱き合った。
「1年前は黒潮リーグでしたから。三振はボクらしくありません。秋山さん、清原さんの印象? う~ん、デカい、大きい、ですかね」
当時のスポーツ新聞には、そんなシリーズ中のトボケたコメントが掲載されている。94年には自身初の最優秀救援投手賞を獲得、95年にはイチロー擁するオリックスを破り、再び日本一の胴上げ投手になった。ノムさんは決して面と向かって「お前が抑えだ」とは言わなかったが、前述の『ナンバー2の男』の中で、大舞台に滅法強いクローザーをこう称賛している。
「なぜ、高津がプレッシャーのかかる試合で強いかと言うと、簡単に言えば負けん気と自信なんでしょうね。自信というのは、見通しのことですから。相手のバッターをこうすれば抑えられるという見通しを立てて取り組んでいるでしょう、データを参考にしてね」
コントロール、テンポ、度胸の良さと、フォアボールの心配がない信頼のできるサイド右腕は野村ヤクルトの抑えの切り札として定着し、ときにカメラの前ではアフロのヅラを被って『大都会』を熱唱する。背番号22は、絶大な信頼感で結ばれていた古田とともに、平成ヤクルトの明るいチームカラーの象徴的な存在になっていく。
30歳「オレ、このままでいいのかな……」
しかし、ヤクルト投手初の年俸1億円を突破した97年に壁にぶち当たる。