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藤井聡太19歳はお寺散策、羽生善治15歳は実名で小説に… タイトル戦対局場と大棋士の「名局・町興しに貢献秘話」
text by
田丸昇Noboru Tamaru
photograph by日本将棋連盟
posted2021/12/14 17:30
京都・仁和寺で行われた竜王戦第2局での藤井聡太
若き羽生の和服姿など貴重な対局場での写真
写真は、1975年の名人戦(中原名人ー大内八段)第1局の対局光景(左は中原)。対局場は東京・広尾「羽沢ガーデン」。
日本将棋連盟や棋士と縁がある約200人の将棋ファンが招待(有料)され、小人数に分かれて対局を10分ほど観戦した。
写真は、大広間での大盤解説会で、著名棋士が交代で解説した。2日目の午後から終局まで開かれ、夕食休憩では羽沢名物の牛丼(松阪牛)が参加者に供された。
内田康夫が小説を執筆、15歳の「羽生少年」が登場
1972年の名人戦(大山名人ー中原八段)第1局も「羽沢ガーデン」で公開対局が実施された。その会場に棋友と一緒に初めて参加したのは、将棋を愛好した作家の内田康夫さんだった。面白い世界があるものだと思ったという。それがきっかけとなり、当時は趣味で書いていた小説の発想が浮かんだ。
その草稿は、1986年に『王将たちの謝肉祭』の表題で刊行された。将棋界を舞台にしたミステリー小説で、大岩泰明(大山康晴十五世名人)、柾田圭三(升田幸三実力制第四代名人)など、著名棋士と思しき人物が登場する。実名で唯一登場するのは、15歳の天才棋士「羽生少年」。小説の中で羽生少年は老雄の柾田に、「先生の将棋、あまりすごいので、僕はとても……。その、すばらしいと思って、そのことを言いたくて……」と、畏敬の念で語りかける。
写真は、1996年に刊行された『王将たちの謝肉祭』の新装版の表紙。大山、升田、羽生のイラストが描かれている。
内田さんは棋友の「小説を書いてみろ」という一言に発奮し、1980年に45歳で作家デビューした。後年にはベストセラー作家の地位を築いた。「作家人生の始まりは将棋からでした。将棋には不思議な縁を感じますね」と語ったものだ。
1990年代以降は、タイトル戦の公開対局がよく実施されるようになった。
写真は、1998年の王将戦(羽生王将ー佐藤康光八段)第2局の対局光景(左は羽生)。対局場は琵琶湖に面した滋賀県の「彦根プリンスホテル」。封じ手用紙を提示している立会人は、私こと田丸八段。
写真の手前には、将棋ファンが対局を観戦する広い部屋があり、別室で行われた大盤解説会と自由に行き来できた。現代の公開対局の基本形となっている。
「勝負めし」や「おやつ」がSNSで拡散される現代
タイトル戦の対局が全国各地で行われているのは、以前は主催新聞社が拡販を目的にした営業の一環でもあった。現代では将棋文化の発展、地域の振興という趣旨になっている。
藤井四冠がタイトル戦の対局で食する「勝負めし」は、テレビの情報番組で何かと紹介される。一般の視聴者は専門的な解説はわからなくても、グルメの話題なら関心を持てる。
藤井は、対局場の地元で生産された食材を使った料理をよく注文する。福島県のある旅館では、海鮮料理を絶賛した。原発事故による風評被害はいまだにあるだけに、少しでもいい影響を及ぼしたと思う。
藤井が気に入った「おやつ」がメディアやSNSで拡散されると、その日のうちに完売したこともあった。
藤井は、将棋を指しながら「町興し」にも貢献している。
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