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藤井聡太19歳はお寺散策、羽生善治15歳は実名で小説に… タイトル戦対局場と大棋士の「名局・町興しに貢献秘話」
 

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田丸昇

田丸昇Noboru Tamaru

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photograph by日本将棋連盟

posted2021/12/14 17:30

藤井聡太19歳はお寺散策、羽生善治15歳は実名で小説に… タイトル戦対局場と大棋士の「名局・町興しに貢献秘話」<Number Web> photograph by 日本将棋連盟

京都・仁和寺で行われた竜王戦第2局での藤井聡太

 対局場は青森・十和田「奥入瀬渓流グランドホテル」。羽生が勝って王将を獲得すれば「七冠制覇」の偉業を達成するので、極寒の地にメディア関係者や将棋ファンが500人以上も訪れた。結果は谷川が勝って王将を防衛した。

 このように最終の第7局は行われない確率が高いが、実現すれば大いに盛り上がる。

「羽生-森内」の黄金カードでのエピソードとは

 2011年の名人戦(羽生名人ー森内俊之九段)は、森内が第1局から3連勝したが、羽生が第4局から3連勝して巻き返した。すると第5局以降の対局場で、森内は地元の関係者に「よく来ていただきました」と笑顔で挨拶され、応対に困ったという。第7局は前記の「常盤ホテル」で行われ、森内が勝って名人を獲得した。

 タイトル戦の主催者は、所定の金額を対局場に支払う。対局者や関係者(総勢で約30人)の宿泊、食事などの諸経費を合算すると、対局場はたいがい赤字になるが、メディアで大きく報道されるので宣伝費と考えているようだ。なお、勝負が決着して対局が行われない場合、原則としてキャンセル料はないという。

 タイトル戦で持将棋(双方の玉が敵陣に入り込んで勝負がつかず引き分け)が生じると、対局は延期となって日程も先送りされる。

 1975年の名人戦(中原誠名人ー大内延介八段)は、第7局までもつれ込んだ。その終盤の局面で大内が勝ち筋だったが、痛恨の一手を指して決め手を逃し、持将棋になってしまった。

 七番勝負の日程で第8局は未定だった。第7局の終了後、第8局の対局日について協議したが、別のタイトル戦が控えている中原は1週間後、精神的に立ち直りたい大内は2週間後と、両者の希望は分かれた。そのとき立会人の棋士は、「どちらが妥協しても士気に響く。いっそのこと《振り駒》で決めたらどうか」と提案して了承された。

 そして、記録係が5枚の「歩」を投げると、裏の「と」が多く出て大内の希望が通った。通常は先手・後手を決める振り駒が、対局日の決定に用いられた。第8局は中原が勝って名人を死守した。

70年代、公開対局は名人戦第1局だけだった

 写真は、1971年の王将戦(大山王将ー中原十段)第1局の対局光景(左は大山)。記録係は当時20歳の私こと田丸三段。対局場は神奈川・箱根「石葉亭」。現代のようにネット中継や現地大盤解説会は行われず、ひっそりとした雰囲気だった。

 1970年代の頃、タイトル戦の公開対局が実施されたのは、名人戦の第1局だけだった。

【次ページ】 若き羽生の和服姿など貴重な対局場での写真

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