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“メディア不信”のプラティニがダバディ相手に明かしてくれた《1986年W杯ブラジル戦、伝説の死闘ウラ話》 

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フローラン・ダバディ

フローラン・ダバディFlorent Dabadie

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photograph byAlessandro Sabattini/Getty Images

posted2021/12/09 17:01

“メディア不信”のプラティニがダバディ相手に明かしてくれた《1986年W杯ブラジル戦、伝説の死闘ウラ話》<Number Web> photograph by Alessandro Sabattini/Getty Images

1986年W杯、ブラジル戦のプラティニ。35年後の今、裏話を語ってくれた

「でも全く動じなかったよ。我々は前の試合で世界チャンピオンのイタリアに勝って、自信を取り戻していたんだ。早い時間(前半17分)に先制されたけど、当時のブラジルはほとんど全員がセリエAでプレーしていたから、彼らの実力に圧倒されることもなかった。私自身もウディネーゼにいたジーコ、フィオレンティーナのソクラテスはもちろん、当時はサンパウロにいたカレッカもよく知っていたよ。ブラジルとの対戦で初めてコンプレックスを抱かなかった。W杯のベスト8まで進むと、重要なのは何よりメンタルだからね」

私の左足にサッカー人生で最も大事なチャンスが来た

――1点を追いかけていた41分には、ゴール前でファーサイドにいたあなたの前にボールが届きましたね。ただし左足に。

「セリエAで長くやってきたストライカーとして、GKのリバウンドやミスを見越して良いポジションを取るのは当たり前だ。ボールがGKの前を通って私の足元に届くまで、わずか1秒もないかもしれないが、その1秒をものすごく長く感じた。永遠だった。私のサッカー人生の全てがその一瞬に頭の中に蘇ったんだ。子供の頃、父の指導を受け、ポジショニングや予測、左足の使い方を磨いてきていた記憶。

 そしてまさに、私の左足にサッカー人生で最も大事なチャンスが来たんだ。父の言葉を思い出したよ。『ミシェル、ゴール前で左足にボールが来たら、絶対に足を振らないで。当てるだけでいいぞ』。左足の角度を決め、インサイドを壁のように使ってボールをゴールに流した。当時31歳だった私が、10歳の頃の経験を生かした瞬間だった」

――試合はそのまま延長戦に突入しましたが、最後まで素晴らしい攻防が続きました。スタンドの観衆もテレビの前のファンも、みんな美しい試合に酔いしれていた。ピッチで戦っていた選手たちは、どんな感覚だったのですか。

「猛暑の中の激しい戦いだったからね、ピッチ上ではそれほどの喜びは感じていなかったよ(笑)。ただ、つらいと感じることもなかった。ベスト8に辿り着き、すでに2カ月あまりフランスを離れていた(メキシコは高地のため、慣れるために大会前の合宿は通常よりも長かった)から、正直言って、ほとんどの選手は家に帰りたかった。とはいえ、決勝トーナメントになれば毎試合が最後かもしれず、集大成として迎えられるんだ」

伝説のPK戦、ジーコもあなたも外したが?

――120分を戦ってPK戦へ。ブラジルはソクラテスが外し、試合中のPKを外したジーコが今度は決めました。しかし、フランスは4人目のあなたが外してしまいましたね……。

【次ページ】 親友のマラドーナには申し訳ないが……

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