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欧州サッカーPRESSBACK NUMBER
“メディア不信”のプラティニがダバディ相手に明かしてくれた《1986年W杯ブラジル戦、伝説の死闘ウラ話》
text by
フローラン・ダバディFlorent Dabadie
photograph byAlessandro Sabattini/Getty Images
posted2021/12/09 17:01
1986年W杯、ブラジル戦のプラティニ。35年後の今、裏話を語ってくれた
「そうだったね。PK戦では私はずっと5人目で、このときも監督のアンリ・ミシェルとそう決めていた。しかし、PK戦直前にルイス(・フェルナンデス)が、『俺は5人目だと絶対外さない。蹴らせてくれ』って言い出した。この大舞台のとんでもない重圧の中でも絶対に蹴りたい! と言う選手は珍しい。だから譲ったんだ。私のPKはめちゃくちゃだった。左の低い位置に蹴りたかったのに、左上にふかしてしまった。あんな外し方は初めてだった。
でもね、この試合の終盤にはもうヘトヘトだったんだ。40度の猛暑、海抜1550mでの呼吸困難、120分の激しい展開、もう身体はボロボロだ。実は直前合宿に入ってからアキレス腱の痛み止めを6週間も飲み続けていたんだが、それでもなお強烈に痛かった。PKを外したのは偶然ではなかったんだよ」
――自信満々だったというフェルナンデスが決め、勝利を手にしましたね。
「ルイスが蹴る前に彼に言ったんだ。『君が決めないと私はフランスに帰れないよ』って(笑)。このW杯は私たちの世代の最後のビッグマッチだったし、いくら相手がブラジルとはいえ、大会の本命として臨んだチームがベスト8止まりでは、サッカー人生の最大の悔いになっていただろうね。でも彼は決めた」
親友のマラドーナには申し訳ないが……
――あの勝利で私はフランスの初優勝を確信しました。準決勝の相手はそれまで不調だった西ドイツ。しかし、結果はまさかの0-2。いったいなにが起こっていたのですか。
「はっきり言って、あの大会に限っては西ドイツよりフランスの方がはるかに実力は上だった。試合中にもチャンスがあったし、私が決めた同点ゴールもオフサイドではなかった。でもまあ仕方がない。大会が始まってから、私もジレスも不調だった。私はハードなセリエAの疲れがあり、アキレス腱の炎症も悪化してぼろぼろだった。
私たちのベスト・ストライカーだったジョゼ・トゥーレが大会前のケガで欠場したのも痛かった。それがなければ、きっと優勝していたよ。親友のマラドーナには申し訳ないが、優勝したアルゼンチンにも絶対勝っていた(笑)。あの準決勝については、後にベッキー(ベッケンバウアー)と話したが、彼でさえ『なぜあの二流チームに負けたんだ?』とからかってきたぐらいだから」
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