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「“関東の宝塚”を千葉県に作りたかった」“消えた競馬場”JR柏駅から徒歩15分…東洋一大きかった「柏競馬場」、今は何がある?
text by
鼠入昌史Masashi Soiri
photograph bySankei Shimbun
posted2021/11/10 11:07
今年5月5日に船橋競馬場で行われた「かしわ記念」。じつは消えた「柏競馬場」が名前の由来になっている
完成した柏競馬場は1周が1600mでコースの幅は30m。これは当時に限らず今の時代においても地方競馬の競馬場としてはとてつもない広さである。柏競馬場の後を継いだ船橋競馬場は外回りコースの1周が1400mで、地方競馬では最大の大井競馬場でも1600m(柏競馬場と同時代には目黒に目黒競馬場があったが、そちらも1周1600mだった)。いかに柏競馬場がとてつもない規模を誇っていたのかがわかる。観客席も立派なもので、屋根を持つ一等観覧席と屋根のない二等観覧席が設けられていた。
“東洋一の競馬場”
ともあれ、1928年の5月に1周1600mの広大な競馬場がオープンする。新聞は“東洋一の競馬場”と書いた。いまではあまり使われない表現だが、この時代には“東洋一”“東洋初”といった東洋を意識したあおり文句がやたらと使われていた。柏競馬場もその仲間、日本が世界に誇る競馬場だったのだ。
1928年に行われた第1回の柏競馬場の競馬開催では、なんと3日間で9万人もの観客が訪れた。その頃はまだ柏市ではなく柏町で、町の人口は7000人程度だったからとてつもない賑わいだ。売り上げは3日間で14万円に達する。柏町の予算のこれまた約3倍である。上野駅から柏駅までの臨時列車も走ったという。ちなみに、第1回日本ダービーが目黒競馬場で行われたのは柏競馬場誕生から4年後の1932年。ちょうど競馬熱が高まっていた時期の、柏競馬だったのである。
“関東の宝塚”を作りたかった
しかし、それにしても吉田さんはなぜそんな巨大な競馬場を作ったのだろうか。大の競馬好きで馬を何頭も所有していた……かどうかはわからないが、少なくとも吉田さんの真の目的は単なる競馬場だけではなかった。吉田さんの夢は大きく、“関東の宝塚”。競馬場を手始めに、1929年には内馬場に柏ゴルフ場を開設し、一大レジャーランドとして開発していこうと目論んでいたのだ。
内馬場をゴルフ場に開発したのは、当時の法律では競馬開催が年間6日間しか認められていなかったので、施設を遊ばせておくのはもったいないという事情もあったのだろう。だが、実際にゴルフ場は大繁盛し、近所の小中学生がキャディーを務めるようなこともあったという。皇族や政治家、会社役員などもよく訪れたというから“関東の宝塚”もあながち大げさではない。柏ゴルフ場の常連客のひとりには、当時はまだ農商務省の官僚だった岸信介もいた。
年に6日の競馬開催と通年のゴルフ場の賑わいは、近くを通っていた鉄道にも影響を及ぼす。1933年には総武鉄道(現・東武鉄道)の柏競馬場前駅が開業する。それまでは柏駅から乗り合いバスが走って観客やゴルファーを運んでいたが、あまり便利とは言いがたい。柏競馬場・柏ゴルフ場の唯一のネックが、交通の便の悪さだったのだ。柏競馬場前駅の開業はこの問題の解消につながった。
なぜ「柏競馬場」は消えたのか?
しかし、その直前の1931年には市川に競馬場ができる。