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「“関東の宝塚”を千葉県に作りたかった」“消えた競馬場”JR柏駅から徒歩15分…東洋一大きかった「柏競馬場」、今は何がある? 

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鼠入昌史

鼠入昌史Masashi Soiri

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photograph bySankei Shimbun

posted2021/11/10 11:07

「“関東の宝塚”を千葉県に作りたかった」“消えた競馬場”JR柏駅から徒歩15分…東洋一大きかった「柏競馬場」、今は何がある?<Number Web> photograph by Sankei Shimbun

今年5月5日に船橋競馬場で行われた「かしわ記念」。じつは消えた「柏競馬場」が名前の由来になっている

 戦争の足音が近づく中で、軍馬の育成が奨励された時代背景もあったのだろうし、1932年の第1回日本ダービーを控えて競馬ブームだったことも関係していそうだ。いずれにしても、より都心に近い市川競馬場が柏競馬場からお客を奪ったことは想像に難くない。

 そうした中で、戦争の時代に入るとそれまでのように馬券を買って楽しむという競馬開催は許されなくなっていく。1940年からは軍馬鍛錬競走に形を変えてレースを続けたが、“軍馬鍛錬”の大義名分も通じなくなって1942年を限りに競馬開催は打ち切られてしまう。その後残ったゴルフ場も1943年に閉鎖。内馬場にはゴルフ場に代わって日本光学(現・ニコン)が開設されて柏競馬場もいったんは役割を終えている(柏競馬場前駅は1943年に北柏駅に改称、1945年に休止のまま廃止)。

 戦争が終わると1947年から再び競馬開催が行われるようになったが、柏競馬場前駅を失ったことや都心からのアクセスの悪さも相まってかつての賑わいを取り戻すことはできず、1950年の開催を最後に船橋競馬場に移転する形で廃止されている。

60年近い“マンモス団地”としての歴史

 つまり、柏競馬場は“関東の宝塚”を目指して昭和初期に誕生して一時はおおいに賑わうも、戦争の時代に飲まれて消えたいわば“幻の競馬場”。船橋競馬場に引き継がれたというのも方便のようなもので、ほとんど廃止といっていい。

 廃止後しばらくはそのままスタンドなどの施設は残されていたようだが、ほどなく日本住宅公団の豊四季台団地へと生まれ変わる。現在の柏市内においては光ヶ丘団地と並ぶマンモス団地。高度経済成長、人口急増の時代、都心からのアクセスも向上して幻の競馬場の跡には団地族がやってきた。柏の都市化に大きく貢献した、そんな団地のひとつであった。

 豊四季台団地の入居開始は1964年のことだ。団地の建物は老朽化も進み、住民の高齢化も課題になっているという。かつて競馬場の内馬場だった団地の中を歩いてみると、確かに古い建物も目立つし、一方では建て替えが進んでいるところもあり、さらにはすっかり建て替えが終わって真新しくなっているところもあった。郊外の団地の新陳代謝という問題が、競馬場の跡地でも進行している。

 そんな団地を後にして、ふたたび柏駅に戻る。東武野田線の線路の反対側には気象大学校。踏切に向かってスナックが建ち並ぶ一角もあったりして、“昭和の郊外”はそこかしこに残る。そうした中で、“関東の宝塚”になり損ねた柏競馬場がそこにあったということを今に伝えるものは、何もないのであった。

(写真=鼠入昌史)

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