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《素朴な疑問》甲子園の土はなぜ“ブランド化”した? 最初に持ち帰った高校球児は誰か? 72年前の夏「気づいたらポケットに土が…」

posted2021/08/28 17:01

 
《素朴な疑問》甲子園の土はなぜ“ブランド化”した? 最初に持ち帰った高校球児は誰か? 72年前の夏「気づいたらポケットに土が…」<Number Web> photograph by KYODO

夏の甲子園で敗退し、グラウンドの土を集める選手たち(写真は2014年、八戸学院光星)

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近藤正高

近藤正高Masataka Kondo

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敗れたチームの球児たちが土を集める――夏の甲子園の印象的なシーンのひとつだ。そもそもあの風習がスタートしたのはいつなのか? 過去に遡って検証してみよう(全2回の1回目/後編へ)。

 コロナ禍のため2年ぶりの開催となった今夏の甲子園は、雨天のため順延が続いた。出場校のなかには選手に感染者が出たため大会途中で辞退するところも出ている。コロナの影響でいえば、負けたチームのあいだで風習となっている甲子園球場の土の持ち帰りも、感染防止対策として今回は禁止された。選手には別の形で土が贈られるという。

そもそも甲子園の土を最初に持ち帰ったのは誰か?

 そもそも甲子園の土を初めて持ち帰った球児は誰なのか? これについては諸説ある。これまでによくとりあげられてきたのは、終戦直後の1949年夏の甲子園(第31回全国高校野球選手権)に出場した福岡の小倉高(この年の校名は小倉北)のエース・福嶋一雄である。

 福嶋はその2年前の夏、旧制小倉中学の4年生だった第29回大会で全5試合を1人で投げ、九州勢初の全国制覇に貢献した。翌年も新制小倉高の2年生として出場し、全5試合完封で大会連覇を果たす。しかし、3連覇を目指したこの年は、倉敷工との準々決勝で先発するも、6-6の同点で迎えた9回裏に無死満塁のピンチを招いて降板、チームは結局、延長10回の末、サヨナラ負けを喫した。

 試合終了後、福嶋は脱力感からもうろうとしながらグラウンドから引き上げる。このとき、彼がある行動をとるのを見ていた人がいた。2日後、小倉に戻った彼のもとに一通の手紙が速達で届く。送り主は長浜俊三という大会審判副委員長だった。文面には「甲子園の土を3年間も踏んだことで、学校教育で学べない多くを学んだはずだ。君がポケットに入れた土の中にそのすべてが詰まっている。それを糧にこれからの人生を正しく、大事に生きてほしい」とあった。それを読んだ福嶋はユニフォームのズボンをひっくり返すと、ポケットから土がこぼれ落ちた。彼にはまったく記憶がなかったが、どうやら無意識のうちに球場の土を摘んでポケットに詰めていたらしい。

 杯1杯ほどの量があった土を、福嶋は家のゴムの木の植木鉢に入れ、後年にいたるまで玄関に置いていた。高校卒業後も早稲田大学、八幡製鉄(現・日本製鉄)で野球を続けた彼は、のち日本野球連盟の理事や参与などを歴任し、2013年には特別表彰で野球殿堂入りも果たしている。

75年前「土を取って来い。またここへ返しに来よう」

 福嶋の3年前、1946年夏の第28回大会でも、初出場の東京高等師範学校附属中学(高師附属中、現・筑波大附属高)に同様のエピソードが残る。準決勝まで進んだ同中学だが、大阪の強豪・浪華商業(現・大体大浪商)に1-9の大差で負けてしまう。

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