甲子園の風BACK NUMBER
《素朴な疑問》甲子園の土はなぜ“ブランド化”した? 最初に持ち帰った高校球児は誰か? 72年前の夏「気づいたらポケットに土が…」
text by
近藤正高Masataka Kondo
photograph byKYODO
posted2021/08/28 17:01
夏の甲子園で敗退し、グラウンドの土を集める選手たち(写真は2014年、八戸学院光星)
ショックに打ちひしがれる選手たちに、監督の佐々木迪夫が「自分のポジションへ行って土を取って来い。そして来年、またここへ返しに来ようじゃないか」と声をかけた。この言葉で我に返った選手たちは、それぞれの守備位置へ走ると、懸命に土を取ったのである。
ただし、このときの大会は、甲子園が連合軍に接収されていて使えず、同じ兵庫県西宮市内にある西宮球場で開催された。したがって高師附属中の選手が持ち帰ったのは厳密には「甲子園の土」ではない。それでも、この話がその後の球児たちに影響を残した可能性は十分に考えられる。それというのも、試合翌日の大阪朝日新聞で報じられた上、翌年には旧制中学3年の国語の教科書にも、わずかな期間とはいえ掲載されたからだ。
教科書に載ったのは、土を持ち帰ったうち4年生だった二塁手の竹田晃が書いた作文である。しかし、掲載にあたり、捲土重来を期して土を持ち帰ったという内容が、記念のためだとか、ナインの心をつなげるといった意味合いに書き換えられてしまった。敗戦直後のこの時代、どうやら竹田の書いたままの内容では、GHQ(連合軍総司令部)の占領政策に抵触すると懸念されたらしい。実際、GHQは『忠臣蔵』など敵討ちを描いた映画や舞台の上演を、封建的であるとの理由で禁じていた。
それからまもなくして教科書は、文部省(現・文部科学省)の編集・著作による国定から検定制に改められ、球場の土の話も教科書から消えた。甲子園で再び全国大会が開催されるようになったのもこの年、1947年のことである。高師附属中は、東京大会の決勝で惜敗し、2年連続の出場はかなわなかった。作文を書いた竹田はその後、東大で中国文学研究の道に進み、長じて教授も務めた。一方で東大野球部の監督、高校野球の地区予選の審判などを務め、野球と関係を持ち続ける。
1937年の夏「靴下に入れて持ち帰った」
甲子園の土を持ち帰った元祖と言われる元球児にはさらにもう1人、熊本工から巨人に入団し、選手・監督として多大な功績を残した川上哲治がいる。彼は戦前の1937年夏の第23回大会で、愛知の中京商(現・中京大中京)との決勝に敗れ、悔しさいっぱいで甲子園のグラウンドの土を靴下に入れて持ち帰ったという。前出の竹田晃はのちにある会合で川上とたまたま同席する機会があり、この件について本人に確かめたところ、「本当です。熊本工が練習場として使っていた水前寺球場に撒きましたよ」との証言を得た。撒いたのは、後輩たちの来年の活躍を願い、熊本と甲子園を土で結びつけようとの考えからであったという(三浦馨『「甲子園の土」ものがたり』)。
このように、球場の土を初めて持ち帰った球児については複数の説がある。では、現在のように負けたナインがベンチ前で土を集める光景が恒例となったのはいつなのだろうか。後編で詳しく検証していく。
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