甲子園の風BACK NUMBER
「甲子園が誕生したのは甲子園球場ではなかった」106年前“高校野球”がスタートした阪急豊中駅の消えた野球場、今は何がある?
text by
鼠入昌史Masashi Soiri
photograph byMasashi Soiri
posted2021/08/19 11:00
阪急宝塚線の豊中駅。ここから10分ほど歩いたところに“高校野球”発祥の地があるという
そんな中をまっすぐに歩いて行くと小さな公園が見えてくる。角には「高校野球発祥の地記念公園」とある。この小さな公園こそが、ここ豊中で高校野球が産声を上げたことを今に伝えるメモリアルパークだ。
公園といってもレリーフや説明板などが置かれていて、小さな博物館のよう。筆者が訪れたときには数人の子どもがスケボーに興じていたが、これはオリンピック効果なのか……。が、雨が降ってくると彼らはそそくさと帰っていった。そこであらためてじっくりとメモリアルパークを散策してみる。
第1回からの優勝校がズラリ
公園から道路を挟んだ向かいにも小道があって、そこには第1回大会からの優勝校・準優勝校がプレートに刻まれている。気をつけたいのは、豊中運動場はあくまでも“夏の高校野球”の発祥の地。なので、センバツではなく夏の大会の優勝校と準優勝校の名が並ぶ(藤浪晋太郎の春夏連覇はここだけではわからないということだ)。
で、第1回から中止になった昨年の第102回まではわかるのだが、プレート設置の余力はまだまだあった。なんと、200回大会までのスペースが用意されているのだ。いやはや、順調にいくと200回大会は2118年。ドラえもんも生まれている(2112年の設定)。
ドラえもんが生まれる時代の高校野球とはどんなものになっているのだろう……と未来に思いをはせつつ、公園内の説明板も読んでみる。豊中運動場はこの公園というよりはこのすぐ南西側に設けられていたようだ。区画はほぼ正方形。公園の脇が正門になっていて、豊中駅からのアクセスはなかなか良好である。
といっても、今はその当時の面影はほとんど残っていない。残っているのは正方形の区画くらいなもので、その中はびっしりと住宅地に変わっている。その住宅の中には豊中運動場の外壁だったレンガ塀をそのまま流用しているところもあるという。
なぜ「豊中」は第2回大会までだったのか?
豊中運動場があった正方形の区画の先を見ると、急な下り坂になっている。地形図を見ると、豊中運動場は千里丘陵の西の端、豊中台地と呼ばれる微高地の突端にあったようだ。今では台地の下にも住宅地が続いているが、それは市街地(住宅地)が拡大していったから。そして台地の下は猪名川沿いの低地で、そこに設けられたのが伊丹空港なのだ。
少し話が逸れてしまったが、台地の上の豊中運動場は1913年に完成した。阪急電鉄の前身(というか創業時の社名)である箕面有馬電気軌道の総帥・小林一三が沿線活性化を目的として建設した多目的グラウンドであった。豊中駅の開業も運動場と同じ1913年。つまり、最初はこの運動場のための駅という意味合いがあったのだろう。