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「どうしたイチロー! で、次はどうする松坂」19歳で7000万円、1週間303球熱投…松坂大輔“伝説の1999年”を振り返る
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph byKYODO
posted2021/07/17 17:04
1999年5月16日のオリックス戦。イチローとの初対決で3打席連続三振を奪う
「初黒星となった近鉄戦で、リードされてさらにピンチの場面で中村紀洋を迎えたことがあった。この時、松坂くんは中村が打ち気に早っているようすを見て、スッとプレートをはずし、一塁にけん制球を放ったんだ。この時の間のはずしかたなんか、天才的だよ。こういうのは教えられるものじゃないんだ。彼が天性の才能を持っている証拠だね」
まるで野球専門誌のようなガチンコ解説を『小学五年生』でぶっこむ江夏も半端ないが、とにかく松坂が凄いのは伝わってくる。12月13日には、港区の高輪プリンスホテルで盛大にCM出演共同記者会見が行われた。松坂が契約したのは、日立、全日空、キリンビバレッジ、カシオ、ミズノの5社。各社8000万円、計4億円の大型契約をテレビカメラ17台、120社300人のマスコミが報じた。壇上で名だたる大企業の社長や副社長に取り囲まれ、記念撮影に堂々と応じる19歳の姿がそこにはあった。
狂熱と衝撃の1年の締めは12月31日のNHK紅白歌合戦。ゲスト出演して、第2部開始宣言の大役を担う。松坂に始まり松坂に終わった1999年の記憶――。80年9月生まれの“平成の怪物”は、「松坂世代」と呼ばれた野球選手だけでなく、当時の一般の若者たちにとっても等身大のヒーロー的な存在だった。野球にそれほど興味がなかった層にも、背番号18の身を削る熱投は心のずっと奧の方に響いた。自分たちと同世代の人間が年功序列に蹴りを入れ、大人の世界で大暴れをしている。それは遠くイタリアで活躍する孤高の中田英寿とは、また別のリアリティと希望を感じられたものだ。未来を僕らの手の中に、真新しい21世紀の到来を予感させてくれた。
令和の今、「1999年の松坂」を振り返ることは、時代を書くことであり、一種の世代論でもある。
なぜなら、松坂大輔は、時代を代表する投手ではなく、我々が生きた時代そのものだったからである。
See you baseball freak……
(【前回を読む】清原和博「思った通り一流や」&長嶋茂雄「彼は野球界を変える人間」 22年前の松坂大輔(18歳)はプロ野球の救世主だった へ)