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清原和博「思った通り一流や」&長嶋茂雄「彼は野球界を変える人間」 22年前の松坂大輔(18歳)はプロ野球の救世主だった
posted2021/07/17 17:03
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph by
Sankei Shimbun
2021年7月、西武の松坂大輔が今季限りでの「現役引退」を表明した。日米通算170勝右腕の“平成の怪物”も9月で41歳になる。
令和の今、全盛期の背番号18の投球動画を眺めていると、まるで当時の懐メロを聴いているように90年代後半から00年代前半を思い出し、ボヤけたブラウン管の向こう側に映っていた過去の記憶まで甦ってくる。
1999年(平成11年)、確かに日本中がひとりの若者に夢中になった。その新人投手は、宿舎ではコンビニで買ったじゃがりことコーラ片手に、プレステの「実況パワフルプロ野球」で遊んで、音楽は宇多田ヒカルや鈴木あみを好んで聴く。友人とのカラオケではラルク・アン・シエルを熱唱した。野球を離れたら、当時のどこにでもいる18歳だ。それが、いざマウンドに立つと“平成の怪物”に豹変。投げる度に社会的なニュースとして扱われる。まさにその快投の数々は事件だった。あらためて、「1999年の松坂大輔」の熱狂を当時の雑誌(参考資料:『週刊ベースボール』『週刊文春』『週刊新潮』『週刊ポスト』『週刊読売』『週刊宝石』『サンデー毎日』)を元に追うことにしよう。
98年に横浜高校を甲子園春夏連覇に導いた右腕は、夏の決勝戦でノーヒットノーランを達成。ドラフト会議では3球団から1位指名され、西武ライオンズが交渉権獲得。意中の球団ではなかったが、東尾修監督が自身の200勝記念ボールを持参して説得にあたり、入団にこぎつけた。
98年12月28日、東京プリンスホテルでの入団発表には55社268人の報道陣が大集結。ひな壇での会見を終えると、学生服から背番号18の真新しいユニフォームに着替え、2時間近くテレビやラジオの個別インタビューに臨む。その3日後の31日には、東京・芝の増上寺で東尾監督、両親とともに除夜の鐘をついた。それは、まるで翌年の“松坂フィーバー”の始まりを告げる合図のようでもあった。
1200個のバレンタインチョコ
99年1月9日、土曜日。若獅子寮の前では8台のテレビカメラが待ち受けていた。松坂の入寮の瞬間をとらえるためだ。所沢に持参した荷物はスポーツバッグ2個と紙袋を4個。