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「どうしたイチロー! で、次はどうする松坂」19歳で7000万円、1週間303球熱投…松坂大輔“伝説の1999年”を振り返る
posted2021/07/17 17:04
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph by
KYODO
「どうしたイチロー! で、次はどうする松坂」
「怪物、天才を粉砕」
これは1999年5月16日の西武vsオリックスで、18歳の松坂大輔がイチローから3打席連続三振を奪った様子をリポートした、『週刊ベースボール』99年5月31日号巻頭カラーページの見出しである。世紀末の“平成の名勝負数え唄”誕生に、「どうしたイチロー! で、次はどうする松坂」(『週刊宝石』99年6月3日号)「怪物・松坂 こうすれば打てる」(『週刊読売』99年6月6日号)と週刊誌も競うように特集を組み報じた。多くのファンがこの歴史的一戦を記憶していると思うが、あらためて実際は中指故障から13日ぶりの復帰登板だったことに驚かされる。さらに141球を投げ3安打無失点13奪三振という投球内容も、高卒ルーキーを大事に育てる現代からすれば、ノスタルジーすら感じる起用法だ。
あれから、もう22年が経過したのである。当時は98年にサッカーフランスW杯が開催され、02年日韓W杯に向けてサッカーが若い世代を中心に盛り上がっていた。ちなみに『創』(1998年6月号)の「中田英寿とサッカーW杯ブームの検証」によると、日本代表が初のW杯出場を決めた97年11月、ジョホールバルの歓喜を報じた『Number』は初版32万部があっという間に売り切れ、増刷した8万部もすぐなくなり、約40万部を完売する驚異的な売れ行きを見せた。
当時、私は大阪の大学に通っていたが、学食でスポーツの話題になると、中田や海外サッカーやプレステの「ウイニングイレブン」が中心で、同じくブームになっていた格闘技の桜庭和志やアンディ・フグの名前が出ることはあっても、野球の話題はほとんど皆無だった。それが、松坂のプロデビュー戦の翌日は、「おい155キロ見た?」とほぼ同世代の怪物の話題で盛り上がったものだ。なお、『小学五年生』99年4月号では、中田英寿と小野伸二に挟まれる形で松坂の特集ページが掲載されている。10代からプロで戦い、世代のトップランナーとして、年齢の近い若年層の興味を野球に振り向かせたという意味でも、松坂の球界に対する貢献度は大きい。
イチロー100号「打たれてもスポーツ紙の一面を飾る男」
さて、99年の恐るべきルーキーの快進撃はとどまることを知らなかった。