Jをめぐる冒険BACK NUMBER
「満男は出来上がっていた。浩二には厳しくしちゃったかな」本田泰人が懐かしむ“バチバチな鹿島の紅白戦”と相馬直樹への想い
text by
飯尾篤史Atsushi Iio
photograph byJFA/AFLO
posted2021/06/01 11:03
1999年ワールドユース準優勝の報告をする中田浩二、本山雅志、小笠原満男、曽ケ端準
01年には宿敵・ジュビロ磐田とのチャンピオンシップを制し、リーグ連覇を達成する。カシマスタジアムで行われた第2戦、延長前半10分に小笠原が決めた直接フリーキックによる決勝点は、今なおJリーグの名場面として語り継がれている。
このまま、鹿島の黄金期が永遠に続くのではないか――。
そんな雰囲気すら漂っていた。しかし、鈴木、柳沢、中田らが次々と欧州に活躍の場を求めて旅立つと、鹿島の強さに陰りが見え始めた。
相馬と秋田豊がチームを離れ、本田もベンチを温める機会が増えていく。
「世代交代をしないといけないのは分かっていたし、02、03年くらいから俺も、若手を育てなきゃいけないっていう考えにシフトしていた。伝統をどう繋げていくか、どう伝えていくか。体はまだ動くし、やれる自信もあったから、現役は続けたかった。実際、水面下で誘ってくれるクラブはあったんだけどね。ただ、俺の中で鹿島愛が強すぎたというか。違うユニフォームを着てプレーする自分が想像できなかったんだ」
こうして本田は06年シーズン終了後、アントラーズの一員としてスパイクを脱ぐ。
鹿島のアドバイザーを2年間務めたのち、フットサル場やレストランを経営しながら、芸能活動も行った。13年にはFC町田ゼルビアの強化・スカウト担当を務め、本意ではなかったかもしれないが、昨年からYouTubeも始めた。
そんな本田が今、本腰を入れているのは、地元・北九州で10年に創設したクラブチームの「FUT6(フットセイス)」だ。
北九州から日本代表選手を
「もともと育成に興味があって。いい選手を育てたいという思いが強かった。これまでは1カ月に1回、1週間くらい地元に戻って指導していたんだけど、それでは限界があるから、1年くらい前に福岡に拠点を移したんだ。子どもたちの成長を間近で見られるのは、やっぱりいいね。地元に恩返しじゃないけれど、北九州から日本代表選手を輩出したいんだ」
年に1回開催しているイベントには、これまでに小笠原や秋田、久保竜彦らをゲストとして招いた。子どもたちに元プロ選手と接する機会を持たせたいからだ。
「うちのスクールを手伝ってくれていた増田(忠俊/元鹿島)が大分で自分のサッカースクールを立ち上げたんだけど、教え子を売り込んで鹿島のジュニアユースに入れたんだよね。その行動力は凄い。俺も見習わないといけないなって。今、満男がアカデミーのテクニカルアドバイザーだから、相談に乗ってもらおうかな(笑)」
柳沢、中田、小笠原といった後輩たちが引退後も鹿島に貢献するなか、本田はアドバイザー契約が終了して以降、クラブとは距離を置いている。
だが、自ら好んで距離を取っているわけではない。