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「三塁ベースはボクの恋人です」巨人・原監督は、“後継”サードに誰を指名してきた? 江藤、小笠原、村田、岡本…
posted2021/04/06 17:10
text by
齋藤裕(Number編集部)Yu Saito
photograph by
KYODO
「ボクは三塁のホットコーナーを守ってやってきた。三塁ベースはボクの恋人です。それが守れなくなったら、ボクはいさぎよく引退しますよ」(『週刊ベースボール』1971年9月27日号)
1971年1月、当時34歳の長嶋茂雄が外野転向の声を否定し、語った三塁への愛。
その10年後の81年から8年間にわたってその“聖域”を守った原辰徳は21世紀に入り、02年からは監督というポジションを“ミスター”から引き継ぐこととなる。
では、若大将は2002年の監督就任以降、サードに誰を指名してきたのか。
現在発売中のNumber1024号「20年目の原巨人」では8ページにわたり原巨人計14シーズンを中溝康隆さんのコラム5本とともに振り返っている。詳細は誌面をぜひご覧いただきたいが、その一部としてここではそれぞれの年に多くスタメン起用された三塁手を振り返ってみよう。02年~03年(第1次原政権)、06~10年(第2次原政権前期)、11年~15年(第2次原政権後期)、19年~(第3次原政権)と4つの時代に分けて、原巨人のホットコーナーの変遷を追ってみた。
(1)第1次原政権(02年~03年)広島から来た江藤智
・第1次原政権(02年~03年)
02年 江藤智
03年 江藤智/斉藤宜之
長嶋監督から背番号33を渡されて期待をかけられたのが1999年オフに広島からFA移籍してきた江藤だった。
巨人ファンの記憶に刻まれているのは移籍初年、2000年ミレニアムVの胴上げ試合で9回裏4点差ビハインドを同点に追いついた満塁本塁打だろう。美しい放物線を描くことでも知られたアーチストはその放物線と軌を一にするように、00年を頂点に本塁打数が徐々に降下。原巨人1年目となった02年は打率.242、18本塁打、56打点。翌03年も打率.268、17本塁打、43打点と成績に陰りが見えてくる。
このサード江藤で浮かび上がってくるのは原巨人に起きた2年遅れの“2000年問題”だ。長嶋監督によって束ねられた2000年の「ミレニアム打線」は02年オフにゴジラ松井秀喜が抜け、江藤など他の主力も陰りが見え始め徐々にパワーダウン。原監督は「打率は気にするな。おれが現役でやっていたときの本塁打王なんだから」と江藤を励ましメインに起用しながら元木大介、後藤孝志、川中基嗣などを試し、03年シーズン後半からはこの年好調の斉藤宜之をスタメンに据える。清原和博のケガの際は江藤をファーストにし、次世代サードの育成を目指すが、その志半ばで原監督は03年退任となった。