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「三塁ベースはボクの恋人です」巨人・原監督は、“後継”サードに誰を指名してきた? 江藤、小笠原、村田、岡本…
text by
齋藤裕(Number編集部)Yu Saito
photograph byKYODO
posted2021/04/06 17:10
2011年12月、横浜(現DeNA)から巨人にFA移籍をした村田(右)。会見では原監督に「打点100をねらうそうです!ホームラン30本ねらうそうです!」とハッパをかけられた
(4)第3次原政権(19年~)岡本の開花
・第3次原政権(19年~)
19~20年 岡本和真
原巨人にようやく誕生した生え抜きの4番サードの右打者。目をかけていたつぼみが就任前年の18年に開花。高橋由伸監督が我慢して起用し続け3割、30本塁打、100打点を達成。19年の序盤こそビヤヌエバに三塁を譲り一塁で出場も、中盤からホットコーナーを奪取、20年には「軽い腰痛」で欠場した2試合を除き全試合にスタメン三塁手として出場した。岡本は村田の背番号25を受け継いだが、原監督の接し方は村田の時の厳しさとは全く異なる。不調時は「ビッグベイビーが困っている」と優しさを見せ、活躍すると「ビッグベイビーから若大将になる足掛かりとして、階段を上っている気はしますね」と言って成長を喜ぶ。時おり苦言を呈すことはあれど、今年のキャンプでは「大人になったなと。キャプテンシーも含めてあるんだなと思った」と表情はとても柔らかい。
と、これまで原巨人の三塁を振り返って分かるのは、正三塁手をスタメンで固定できた年はほぼ優勝しているということだ。02年の江藤、07年~09年の小笠原、12年~14年の村田、19年~20年の岡本は100試合以上スタメン出場を果たしている。02年の江藤、08年の小笠原、19年の岡本はチーム事情によって一塁起用も多かったが、最終的に三塁に固定され、合計すると100試合以上でスタメン出場。一方、優勝できなかった03年江藤、06年小久保、11年の亀井と古城、15年村田はスタメンでの出場が100試合未満となっている。
唯一の例外が10年の小笠原。100試合以上のスタメン出場を果たし3割30本を達成も投手陣が絶不調と、正三塁手の存在感が成績に直結しなかった。
「年代記クロニクル」では原巨人で活躍した主力選手たちの成績をシーズンごとに振り返っており、中溝康隆さんのコラムと合わせて読むと長年のG党は懐かしい気持ちになること間違いなしである。