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「三塁ベースはボクの恋人です」巨人・原監督は、“後継”サードに誰を指名してきた? 江藤、小笠原、村田、岡本…
text by
齋藤裕(Number編集部)Yu Saito
photograph byKYODO
posted2021/04/06 17:10
2011年12月、横浜(現DeNA)から巨人にFA移籍をした村田(右)。会見では原監督に「打点100をねらうそうです!ホームラン30本ねらうそうです!」とハッパをかけられた
(2)第2次原政権前期(06年~10年)小久保→小笠原
・第2次原政権前期(06年~10年)
06年 小久保裕紀
07年~10年 小笠原道大
06年、第2次原政権最初のミッションは前年リーグ5位となったチームの再建だった。03年オフにダイエー(現ソフトバンク)から無償トレードで加入した小久保が06年、史上初の生え抜き以外でのキャプテンに就任。だが06年途中にケガで離脱し、チームも大きく不振に陥り2年連続のBクラスに。他球団から来た経歴と主な打順こそ江藤と同じ6番ながら、小久保は個人成績のみでなく低迷期のチームの精神的支柱の役割も期待されていたのだ。
06年オフに小久保はFAでソフトバンクホークスへカムバック。入れ替わるように日本ハムからFA移籍で巨人のホットコーナーに見参したのが小笠原道大だ。眼光鋭く、寡黙なイメージで“サムライ”と親しまれた小笠原だったが、2000年から伸ばしていた口ひげを『巨人軍は紳士たれ』の言葉に則り、入団会見の3時間前にスッと剃り落とし、外様サムライからジェントルマンにジョブチェンジ。入団してからは不動の3番として定着。持ち前のフルスイングでボールも打線もチームも引っ張り、07年原巨人の三塁手として初となるベストナインを獲得、MVPにも輝いた。08年には李承燁の二軍落ちと自身の手術した左膝の負担軽減のため、一塁に回ることも多かったが、07年から10年まで3割30本塁打を4年連続で達成と目覚ましい活躍を見せた。
そして小笠原という「引っ張るサード」の存在は07~09年のリーグV3に結実するのである。