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「三塁ベースはボクの恋人です」巨人・原監督は、“後継”サードに誰を指名してきた? 江藤、小笠原、村田、岡本…
text by
齋藤裕(Number編集部)Yu Saito
photograph byKYODO
posted2021/04/06 17:10
2011年12月、横浜(現DeNA)から巨人にFA移籍をした村田(右)。会見では原監督に「打点100をねらうそうです!ホームラン30本ねらうそうです!」とハッパをかけられた
(3)第2次原政権後期(11年~15年)あの男に“帰宅命令”も…
・第2次原政権後期(11年~15年)
11年 古城茂幸/亀井善行
12年~15年 村田修一
第2次原政権後期5年間はサードには苦労の色がにじむ。11年は小笠原を負担軽減のため一塁に固定し、ホットコーナーは戦国時代に突入した。開幕戦はライアルがスタメンに名を連ねるも定着せず、古城茂幸と亀井善行(2012年まで登録名・義行)をそれぞれ32試合でスタメン起用し、困ったときに頼れる2人を中心に乗り切った。
12年には横浜(現DeNA)から村田修一を獲得。これまでも外から巨人の三塁にふさわしい人材を求めてきたが、原はその誰よりも同じ福岡出身、右打者、そして4番を任された村田に厳しく接したと言っていいだろう。
12年9月7日には優勝争いをするチームにあって第1打席三振、第2打席ゲッツーと一人アウトを量産する男に下ったのは2回裏の守備に入るタイミングでの選手交代かつ“帰宅命令”。終わってみれば打率.252、12本塁打、58打点の村田を64試合4番に据えながら、チームは日本一に。チームの浮沈を握っていたように思えた巨人のホットコーナーだが、12年は4番三塁が不調でも原巨人は頂点に立ってみせた。その強さと余裕が村田の不振によって余計に際立つ。といっても、村田は翌13年8月に月間46本のヒットを集めるセ・リーグ新記録を達成し、シーズン打率も3割超え。そして13年オフには生え抜き以外では初となる選手会長にまで上り詰めた。
この5年間を振り返ると、原巨人はホットコーナーに苦労しながらも、村田を教え諭し我慢し、かつ起用し続けられる余裕があった。しかし15年第2次原政権の最終シーズンは34歳となった村田が絶不調でチームも2位。実は15年終盤にはこの年1年目の岡本和真をスタメンサードとして11試合に起用。そうやって次世代のサードを探し求めるさなかに、原監督は再び退任となる。