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サポーターが“被災地クラブの番記者”に… 取材での葛藤、気づいたスポーツ報道の尊さ【2011年のベガルタ仙台】

posted2021/03/11 06:01

 
サポーターが“被災地クラブの番記者”に… 取材での葛藤、気づいたスポーツ報道の尊さ【2011年のベガルタ仙台】<Number Web> photograph by Kyodo News/Toshiya Kondo/Kahoku Shimpo

被災地で柳沢敦らベガルタ仙台イレブンが奔走する一方で、河北新報の番記者だった千葉さんは“ある葛藤”を感じていたという

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飯尾篤史

飯尾篤史Atsushi Iio

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Kyodo News/Toshiya Kondo/Kahoku Shimpo

2021年3月11日、東日本大震災から10年を迎えた。当時、プロスポーツも甚大な影響を受けた中で、手倉森誠監督率いるベガルタ仙台は2011シーズン、J1で当時クラブ史上最高となる4位躍進を成し遂げた。そんなチームの歩みを取材してきたのが地元紙『河北新報』でベガルタの番記者を務めた千葉淳一さんだ。宮城県塩釜市出身の千葉さんにあの頃の話を聞き、激動の1年を紙面、写真とともに振り返る(全2回/後編はこちら)

 10時30分から始まったトレーニングはとうに終了し、クラブハウスを出ていく選手たちのコメントもひととおり取り終えた。

『河北新報』のベガルタ仙台担当の千葉淳一は、クラブハウス1階の記者室で翌日の朝刊用の原稿を書きながら、スポーツ紙の記者たちと雑談に興じていた。

「明日は誰が活躍するだろうねとか、何を書こうかとか、他愛のない話をしていたところでした」

 翌日には2011年シーズンのホーム開幕戦となるJ1・第2節、リーグ王者である名古屋グランパスとの一戦が控えていた。

 と、そのときだった。椅子が、机が、ガタガタと揺れだした。

「しばらく座ってじっとしていたんですけど、揺れがなかなか収まらない。それどころか揺れが激しくなってきたので、慌てて長机の下に身を隠そうとしたんです」

 クラブハウスの2階から数人が駆け下りてきたのは、その直後のことである。現れたのは、監督の手倉森誠や渡邉晋、大槻毅、佐藤洋平といったコーチングスタッフだった。

「『やばいぞ!』『この建物、潰れるぞ!』ってコーチングスタッフの方々が叫んでいて。それで、とっさに外に飛び出しました。揺れが収まるまで、クラブハウスの外で待機していたんですけど……」

 2階のスタッフルームでは、戸棚が倒れて荷物が散乱し、天井が落下してきたという。外に出た千葉は、クラブハウスの窓ガラスが割れ、壁にヒビが入る様子を呆然と眺めた。

小雪が舞う中、武藤や細川が寒さに震え……

 近くには、髪を濡らした武藤雄樹と細川淳矢が上にジャージを羽織り、下はバスタオルを巻いたままの格好で立ち尽くしていた。ほとんどの選手がすでにクラブハウスを出ていたが、残って筋トレに励み、風呂に入っていたようだ。

 この日、仙台では小雪が舞っていた。寒さに震える彼らの姿を、クラブハウスの惨状とともに、千葉ははっきりと覚えている。

「その後、クラブがJリーグに連絡を入れ、明日の試合は開催できないだろうと。僕も会社に連絡して、安全第一で行動するよう指示を受け、自宅待機を命じられました。コーチングスタッフの方々が我々メディアに、選手用のバナナやミネラルウォーターを分けてくれて。それで撤収したんです」

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