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「東北人は耐え忍ぶメンタリティを」宮城出身の番記者が心打たれた手倉森監督の人間力【2011年のベガルタ仙台】

posted2021/03/11 06:02

 
「東北人は耐え忍ぶメンタリティを」宮城出身の番記者が心打たれた手倉森監督の人間力【2011年のベガルタ仙台】<Number Web> photograph by Toshiya Kondo

ホーム再開となった浦和戦。キックオフ前の晴れ渡る空とともに勝利を手にした光景はチームもサポーターも報道陣も忘れない

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飯尾篤史

飯尾篤史Atsushi Iio

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Toshiya Kondo

2021年3月11日、東日本大震災から10年を迎えた。当時、プロスポーツも甚大な影響を受けた中で、手倉森誠監督率いるベガルタ仙台は2011シーズン、J1で当時クラブ史上最高となる4位躍進を成し遂げた。そんなチームの歩みを取材してきたのが地元紙『河北新報』でベガルタの番記者を務めた、千葉淳一さんだ。宮城県塩釜市出身の千葉さんにあの頃の話を聞き、激動の1年を紙面、写真とともに振り返る(全2回/前編はこちら)

 普段であれば、記者失格のレッテルを貼られてもおかしくない。

『河北新報』のベガルタ仙台担当の千葉淳一は興奮のあまり、記者席で「よし!」と叫んでガッツポーズをしたのだ。

 だが、この日ばかりは、その行為を白い目で見る者はいなかった。周りのベガルタの番記者もみな、同じように喜びを爆発させていた。

チームの姿を報じることで、被災地に勇気や元気を届ける

 2011年4月23日、雨の等々力陸上競技場で行われた川崎フロンターレ対ベガルタ仙台戦。48日ぶりにリーグが再開したこの日を振り返るとき、千葉の脳裏にまず蘇ってくるのは、試合前のなんとも言えぬ感情と、スタンドの光景である。

「チームの姿を報じることで、自分も被災地に勇気や元気を届けるんだと。勝ってよかった、負けて残念だった、ではない報道をしないといけないと思っていました」

 いよいよ再開するワクワク感と、果たしてベガルタはどれだけやれるのかという期待と不安、被災地のチームを追う自身に課せられた記者としての使命感……。複雑な心境で記者席に着いた千葉は、改めてサッカーの持つ力を目の当たりにする。

「フロンターレのサポーターが『FORZA SENDAI』と書かれた横断幕を掲げてくれて、ベガルタのチャントを歌ってくれたり、ベガルタのサポーターが感謝のメッセージを返したり。サッカーを通じてこんなに人が繋がれるんだって。試合前から本当にエモーショナルで、目頭が熱くなったのを覚えています」

 ゲームは37分にフロンターレが先制したが、73分、左サイドからのパスを受けた赤嶺真吾が右に展開する。そこに走り込んできたのは、前日に千葉がコラムで取り上げた太田吉彰だった。

 足を滑らせた太田のフィニッシュは、決してミートしなかったものの、相手DFの足に当たってコースが変わり、ゴールに吸い込まれていく。

 その瞬間、ガッツポーズをした千葉の想像を超える展開が、その後に待っていた。

 87分、相手陣内の右コーナー付近でFKを獲得する。ゆっくりとボールをセットした梁勇基のキックがファーサイドに飛んでいく。そこに鎌田次郎が飛び込んできた。ドンピシャヘッドで捉えたボールはポストに当たって跳ね返り、ゴールネットを揺さぶった。終了間際の大逆転勝利――。

「梁選手のFKの軌道、ジャンプした鎌田選手が頭で捉えたボールがゴールに吸い込まれるシーンは、今でも頭の中にスローモーションで再現できます」

 その決勝ゴールの場面と同じくらい千葉にとって忘れられないのが、試合後の監督会見の様子である。

【次ページ】 手倉森監督の涙の会見後、拍手に包まれた

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