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サポーターが“被災地クラブの番記者”に… 取材での葛藤、気づいたスポーツ報道の尊さ【2011年のベガルタ仙台】 

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飯尾篤史

飯尾篤史Atsushi Iio

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photograph byKyodo News/Toshiya Kondo/Kahoku Shimpo

posted2021/03/11 06:01

サポーターが“被災地クラブの番記者”に… 取材での葛藤、気づいたスポーツ報道の尊さ【2011年のベガルタ仙台】<Number Web> photograph by Kyodo News/Toshiya Kondo/Kahoku Shimpo

被災地で柳沢敦らベガルタ仙台イレブンが奔走する一方で、河北新報の番記者だった千葉さんは“ある葛藤”を感じていたという

ホーム開幕戦こそ勝利を、と原稿の準備をしていた時

 2年目となる2011年シーズン、チームが掲げた目標は「ひと桁順位」。積雪地域のクラブであるベガルタは例年、南国で長期キャンプを張り、地方で過ごしたままシーズンを迎える。この年も鹿児島県さつま町、宮崎県延岡市、宮崎県宮崎市でキャンプを張って、リーグ開幕戦を戦う広島の地に乗り込んだ。

 ベガルタ担当2年目となる千葉も鹿児島キャンプに同行し、いったん帰仙したあと宮崎市での3次キャンプを取材して、広島へ向かった。

 3月5日のサンフレッチェ広島戦は0-0のスコアレスドロー。帰仙した千葉は1週間後のホーム開幕戦に向けて、チームの取材をスタートさせた。

「次のホーム開幕戦こそ勝利を。そんな思いで取材し、原稿の準備をしていました」

 そして、名古屋戦前日となる3月11日の14時46分、未曾有の大地震が起きたのだった。

燃料の問題もあり、社内待機となった葛藤

 自宅待機していた千葉が出社したのは、地震発生から数日後のことだった。地下鉄はまだ運行していない。通常1時間程度の通勤に、バスや徒歩で2時間以上を要した。

 河北新報社では、現場取材に向かう者と、社内整理を行う者に分かれた。燃料が潤沢にあったわけではなく、車でどこまで乗り込めるかも分からないから、報道部の記者を中心にまとまって被災地に向かった。千葉をはじめとするスポーツ部の記者には社内待機が命じられた。

「人手が足りなくなったら、応援を要請するからと。ベガルタも活動していませんでしたから、社内の片付けや資料の整理をしていましたけど、正直に言えば、葛藤を抱えていました」

 報道部に所属していた2008年には、岩手・宮城内陸地震で被災地を取材し、被災地の現状を伝えることの重要さに触れていた。

 経験を生かすためにも、一番大変な現場に行きたい――。

 そんな使命感に駆られたが、個人的な思いは心の奥のほうに押し込んだ。

柳沢敦は仙台に残って「できることを」

 ベガルタは活動を休止していたが、監督や選手はそれぞれ支援活動を始めていた。避難所を訪れるという手倉森監督を取材し、ベガルタユース出身の大久保剛志から、子どもたちに向けたサッカー教室を行うという連絡を受け、現場に向かった。そこには柳沢敦、渡辺広大、田村直也らも参加していた。

「柳沢選手は年齢も近く、よく話を聞いたんですけど、仙台に残って自分ができることはなんでもやりたいって。いったん地元に帰ってもおかしくないのに、仙台に残っただけでなく、自ら支援を申し出る彼らには頭が下がる思いでした」

 チームが再集合したのは3月28日のことである。選手たちは宮城県内で最も津波被害が大きかった石巻市に向かい、支援活動を行った。街の変わり果てた姿を目の当たりにして、選手たちは言葉を失った。

 29日からトレーニングが再開されたが、チームは重苦しい雰囲気に包まれ、練習後には「サッカーなんてしていていいんだろうか」と打ち明ける選手もいた。

【次ページ】 手倉森監督が口にした「被災地」「希望の光」

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