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サポーターが“被災地クラブの番記者”に… 取材での葛藤、気づいたスポーツ報道の尊さ【2011年のベガルタ仙台】
text by
飯尾篤史Atsushi Iio
photograph byKyodo News/Toshiya Kondo/Kahoku Shimpo
posted2021/03/11 06:01
被災地で柳沢敦らベガルタ仙台イレブンが奔走する一方で、河北新報の番記者だった千葉さんは“ある葛藤”を感じていたという
幸いにも千葉は、クラブハウスからさほど遠くない場所に住んでいた。幼稚園に娘を迎えに行き、自宅近くの妻の実家に預けてから、ひとりで自宅に戻った。電気もガスも止まった状態で、情報源はラジオに限られた。
夜を迎え、ロウソクを灯した部屋でラジオに耳を傾けていると、「津波」「遺体」「甚大なる被害」「火災」といった不吉な言葉が流れてくる。
「ラジオを聞きながら想像するしかなかったんですけど、これは尋常じゃないことが起きたんだなって感じていました」
ブランメル時代からのサポーターだった
宮城県塩釜市出身の千葉は、ベガルタの前身であるブランメル仙台時代からスタジアムで応援する熱烈なサポーターだった。
ジェフ市原で活躍したピエール・リトバルスキーと「オッツェ」ことフランク・オルデネビッツの加入に興奮し、退団の決まった阿部良則やドゥバイッチ・スロボダンの最後の勇姿に目頭を熱くした。
ブランメルがベガルタとなり、1999年に創設されたJ2に参戦すると、その熱は一層高まっていく。チームの勝敗に一喜一憂し、好きだった選手の引退に涙した。そうしたスポーツの持つ力に魅せられ、スポーツ報道に興味を抱くようになる。
大学卒業後、2001年に地元の新聞社である河北新報社に入社した。配属されたのはスポーツ部ではなく印刷部だったが、比較的、時間に余裕があるこの部署に配属されたことで、ベガルタとの関係がさらに深まっていく。
「スタジアムでグッズを販売するボランティアをやるようになったんです」
千葉が社会人1年目の2001年、清水秀彦監督に率いられたベガルタは、マルコス、岩本輝雄、財前宣之らの活躍でJ2の2位となり、念願のJ1昇格を決める。
翌2002年は13位でJ1残留に成功。しかし、佐藤寿人が加入した2003年は残留を争う大分トリニータと最終節で引き分け、J2降格が決まってしまう。千葉も翌2004年4月から報道部に異動となり、ボランティアをする時間が取れなくなった。
2010年からJ1に復帰したベガルタ担当として
長年のサポーターである千葉とベガルタが再び交わるのは、クラブが7年ぶりのJ1復帰を決める2009年のことである。
小牛田支局勤務を経て、この年4月に本社スポーツ部の配属となったのだ。
「2009年はアマチュアスポーツ担当として、菊池雄星投手が活躍した花巻東高校や、柴崎岳選手を擁して全国高校サッカー選手権で準優勝に輝いた青森山田高校などを取材しました。ただ、J1昇格が現実味を帯びてきたシーズン終盤には、スタジアムでサポーター取材をしたりもしたんです。そしてベガルタがJ1に復帰した2010年1月から正式にベガルタ担当になりました」
7年ぶりの舞台で開幕2連勝と最高のスタートを切ったが、地力の差を埋められず、2010年は14位でシーズンを終えた。
もっとも、昇格1年でJ2に舞い戻るチームも少なくない。18チーム中14位は、クラブの経営規模や地方都市という立地を考えれば、決して悪い成績ではなかった。