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【命日】野村克也が再生した3人が明かす “心理をつく感性” なぜ「みんなノムさんにはめられた」のか
text by
鈴木忠平Tadahira Suzuki
photograph byKYODO
posted2021/02/11 06:00
江本孟紀(右)は野村克也の「矛盾だらけ」な本当の顔を知る
左打者にインコース、ターゲットは巨人の主砲
'98年、遠山奬志(現・昭治)が古巣阪神にテスト入団という形で戻ってきた年のオフ、新監督として野村克也がやってきた。
当時の遠山はほぼピッチャーを廃業していた。熊本・八代第一高からドラフト1位で入団し、1年目から8勝を挙げた左腕は、すぐに肘と肩を痛めてあっという間に表舞台から消えた。ロッテへトレードされ、野手に転向したが、結果は出ず、ついに30歳の時に戦力外通告を受けた。
「まだ野手に転向して3年目。打つ方でなんとかなるのではという気持ちでした」
首の皮一枚でプロ野球とつながっていた遠山に、野村はピッチャーとして問うた。
『左バッターの内角に投げられる球、できれば内側に変化する球はあるか?』
遠山は「はい」と答え、そこから腕を下げてサイドスローで投げる決心をした。
ルーキーにして甲子園のアイドルとなった、かつての自分との決別である。
「昔は自然にカットするストレートと、カーブ。この2つを投げ込んでいく投手でした。左打者にインコースを投げるという発想は、あまり持っていませんでした」
ターゲットは巨人の主砲・松井秀喜だった。野村はゲームの勝負どころで松井を迎えるたびに、腕を下げてシュートを身につけ、生まれ変わった遠山を送り込んだ。
「松井がものすごい顔をしていると気配でわかった」
「内角のシュートで攻めて、最後は外のスライダーでしとめるというのが基本でした。ただ松井は毎回、毎打席ごとに対応してくるので、一度として同じパターンの勝負というのはなかったです」
松井キラーの誕生だった。甲子園では終盤、ゴジラが打席に立つと遠山の登場をうながすように歓声が起こるようになった。
数ある対戦の中で、遠山が忘れられない1打席がある。'99年の6月13日のことだ。7回2死三塁で巨人は代打・石井浩郎を送ってきた。マウンドの遠山はベンチの野村を見て驚いた。敬遠の指示だった。
「次は松井ですよ……。いくら相性がいいと言っても巨人の4番ですから……」
遠山はいつも投げる前に相手バッターの顔をじっと観察する。打ち気か、様子見か、気配を感じ取るようにしていた。ただこのときばかりは捕手のミットだけを見た。
「松井の顔は見れませんでした。ものすごい顔をしていることだけは気配でわかった。プライドがありますから」
空振り三振。最後までゴジラを一瞥もせずにマウンドを降りる遠山に、満員の甲子園から万雷の拍手が降り注いだ。