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12チーム222ゴール“流浪のストライカー” 大黒将志40歳が語る“引退”「まだ続けられたけど…お金を無視するのは違った」
text by
栗原正夫Masao Kurihara
photograph byYuki Suenaga
posted2021/02/01 17:15
1月22日、都内で引退会見を開いた大黒。22年間で12チームを渡り歩いた
「ストライカーにとってはゴールを取るのが仕事ですから。人によっては、FWも守備をすべきとか、いろいろな考え方があると思います。ただ、僕は『守備を頑張ったから得点できませんでした』という言い訳は絶対にしたくなかったし、ピッチに立った以上はゴールを奪うのが自分の役目だと思ってずっとやってきました。そうして自分で自分を律することで極められた部分はあったと思います」
ただ、サッカーを始めた当初、大黒は点取り屋というよりもアルゼンチンの英雄マラドーナに憧れたドリブラーだった。そんな選手がなぜストライカーとして覚醒したのか。
転機となったのは、プロ4年目、02年にコンサドーレ札幌からガンバ大阪に戻った頃だったという。3年目まで1ゴールと結果を出せていなかった大黒は、プロとして生き残っていくためにストライカーとして勝負するしかないと腹を括ったのだ。
「それまでは割と器用な方だったので、トップ下をやったりサイドハーフをやったり、場合によってはサイドバックまでやったことも。ユース時代を含めれば、GKとセンターバック以外はぜんぶのポジションをやりました。ただ、最初の3年間はほとんど結果も出せず、周りで戦力外通告をされてきた選手を何人も見てきていたので、もうこれ以上はあかんと思って。それで監督の西野(朗)さんに、FW一本で勝負させてくださいと直訴したんです」
そうした割り切りの発想こそストライカーに必要な要素で、大黒にとってはどうしたらゴールを奪えるかを追求し続けるキッカケになったと言ってもいい。
生粋のゴールハンターともいわれたが、その得点感覚は決して天性のものではない。大黒自身が後天的に身に付けたものだったからこそ、キャリア通算200以上のゴールを挙げるなど長い現役生活を可能したのではないだろうか。
(【続き】40歳大黒将志が明かす“一番影響されたストライカー”「インザーギにイタリアのカフェで会った話」 へ)
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