JリーグPRESSBACK NUMBER
12チーム222ゴール“流浪のストライカー” 大黒将志40歳が語る“引退”「まだ続けられたけど…お金を無視するのは違った」
text by
栗原正夫Masao Kurihara
photograph byYuki Suenaga
posted2021/02/01 17:15
1月22日、都内で引退会見を開いた大黒。22年間で12チームを渡り歩いた
「コロナ禍で出会ったボクシングトレーナーの方に減量の仕方を教えてもらったら、5キロ痩せました。体はめちゃめちゃキレていて、自主トレで練習参加させてもらっていた東京23FCやクリアソン新宿(ともに関東1部)、南葛SC(21年より関東2部)でも練習ではポンポン、点を決めていましたから。実際、19年も栃木でいちばん点を取ったわけですし、シュート技術は(年齢を重ねることで)研ぎ澄まされてきたというか。僕がいま感じているのは、トレーニングや食生活をしっかりしていれば、40歳までは現役でいられるということですね(笑)」
衰えを感じず、現役としてプレーできる自信もある。しかし、それでも引退という道を選んだのは大黒なりのこだわりでもある。
「僕にとってサッカーは仕事ですから。続けようと思えば続けることもできましたが、お金を無視するのはどうかなって。やっぱり点を取ることでお金をいただくのが、仕事じゃないですか。そのバランスを崩してまで、現役を続けるのは違うかなと思ったんです」
“流浪のストライカー”「22年間一度も戦力外にならなかった」
今オフには大黒と同じ1980年生まれで、川崎フロンターレ一筋でプレーしてきた中村憲剛の引退も話題となったが、中村が“バンディエラ(クラブの顔)”なら、大黒は22年間で4カ国12クラブを渡り歩くなど、まさに“流浪のストライカー”だった。
「プロ3年目でコンサドーレ(札幌)に行ったのがよかった(ガンバから1年の期限付き移籍)。当時、僕は実家暮らしで、一度親元を離れて自立したいという思いもあったんです。コンサドーレでは4試合しか出られず移籍自体は失敗でした。けど、あれで(移籍に対する)アレルギーがなくなったというか。
05年オフにグルノーブル(フランス)に移籍するときは、半年後にW杯がありましたし、もう少し待ってもいいのでは、という声もありました。僕自身、ガンバにいた方が遠藤(保仁)さんや二川(孝広)もいて、いいパスが来るし点を取り続けられるだろうと思っていました。でも、いつでも、どこでも、誰とプレーしても点を取れるのがいい選手だと思いますし、そう考えると自分は甘えている気がして。ガンバにいたら、みんなが自分にパスを合わせてくれますが、海外やほかのチームに行ったことで、その時々のチームメートの特徴やレベルに合わせなければ点は取れないということに気づかされました。結果的にどこに行っても点を取り続け、22年間1度も戦力外になることなくプレーできましたし、僕の場合は移籍を繰り返したことが、プレーの幅を広げることにつながったと感じています」
海外はもちろん、J1やJ2、様々なクラブでプレーし、ピッチ内外で様々な出会いや交流があったことで、人間的に成長できた。それが、どこへ行っても活躍できる自信にもつながったとも振り返った。
「GKとセンターバック以外はぜんぶのポジションをやりました」
大黒はストライカーとしての人生を、ゴールを取ることで切り拓いてきたと言ってもいいが、その生き方や考え方は聞けば聞くほど職人のように思えてくる。