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羽生結弦と一緒に被災、アイスリンク仙台支配人が今でも「羽生君が希望の光」と語るワケ「自分が勇気をもらいたいだろうに…」

posted2021/03/11 11:05

 
羽生結弦と一緒に被災、アイスリンク仙台支配人が今でも「羽生君が希望の光」と語るワケ「自分が勇気をもらいたいだろうに…」<Number Web> photograph by Asami Enomoto

コロナ禍の影響を大きく受けるアイスリンク仙台。羽生結弦の活躍を希望に苦境を耐え抜こうとしている

text by

松原孝臣

松原孝臣Takaomi Matsubara

PROFILE

photograph by

Asami Enomoto

「再開していなかったらスケートをやめていた」。羽生がそう語る原点は、東日本大震災から今年3月で10年を迎える。建物損壊による一時閉鎖、コロナ禍での営業休止にも屈しないリンクを支えていたのは他ならぬ彼だった。
初出:Sports Graphic Number 1019号(2021年1月21日発売)/肩書などすべて当時

 小学生くらいの子供たちがおそるおそる、でも楽しそうにフェンスに掴まりながらスケート靴を滑らせる。リンクの真ん中ではインストラクターが生徒に声をかけている。銀色の天井、傷のない壁、広々としたラウンジ、そこにあのときの痕跡はない。

 リンクを出て、出入口の方に歩いていくと展示ギャラリーがある。その一角のみならず施設内のあちこちにこのリンクで育った羽生結弦の名が見て取れる。リンクサイドの壁に掛けられた自叙伝の看板、ラウンジにおいてある雑誌、受付のサーモグラフィーカメラ、そしてリンクへの感謝を記したメッセージボード。ここ、アイスリンク仙台は、羽生とともに、今日(こんにち)を迎えた。

 あれからもう10年が経とうとしている。2011年3月11日。東日本広域に大きな被害をもたらしたその日は、今なお忘れることのできない一日となった。

「下から突き上げるような感覚で、何が起こったか分からない感じでした」

 当時は副支配人、現在はアイスリンク仙台支配人を務める在家正樹はそう振り返る。

羽生のジャンプの痕跡は誰よりも大きく深い

 その日、在家はリンクの事務所に1人で詰めていた。下からの衝撃が長く続いたあと、事務所内のあらゆるものが崩れた。出入口付近に一部、通ることができる空間を見つけ、在家はリンクにいた人々を外へと導く。幸い平日の午後、まだクラブ練習がスタートする前。人数は10人にも満たない程度で多くはなかったが、その中に当時高校1年生で試験後の休みを利用して練習に励む羽生もいた。羽生はスケート靴を履いたまま這いつくばるように外へ飛び出し、なんとか難を逃れる。

 アイスリンク仙台は震災から7年前の'04年に当時の運営会社の方針で一度閉鎖に追い込まれている。しかし'06年、このリンクで練習した荒川静香がトリノ五輪で金メダルを獲得したのを機に署名運動などが起き、リンク運営や設営などを手がける加藤商会によって'07年に復活。同じ年、元アイスホッケー選手の在家は転職でこのリンクにやってきた。副支配人は、羽生にこんな印象を抱いていた。

「中学の職場体験をウチで行っていた時は、ものを片付けきれいにして、挨拶をきちんとする。滑った後もリンクに向かって一礼をするなど、礼儀正しい印象でした」

 彼が滑ったリンクを整備していて、在家はあることに気づいた。

「ジャンプのときにトウを突くと氷がえぐれるじゃないですか。羽生君は誰よりも大きく、深くえぐれているんです」

 氷に刻まれたジャンプの痕跡。その大きさ、深さは他の選手の倍ほどあったという。

【次ページ】 世界一のアクセルを跳ぶ今からすると信じられないが

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