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羽生結弦と一緒に被災、アイスリンク仙台支配人が今でも「羽生君が希望の光」と語るワケ「自分が勇気をもらいたいだろうに…」
text by
松原孝臣Takaomi Matsubara
photograph byAsami Enomoto
posted2021/03/11 11:05
コロナ禍の影響を大きく受けるアイスリンク仙台。羽生結弦の活躍を希望に苦境を耐え抜こうとしている
世界一のアクセルを跳ぶ今からすると信じられないが
そのジャンプを指導していたのがインストラクターの1人、田中総司だ。
選手として'00年全日本ジュニア選手権で優勝するなど活躍し、引退後はプリンスアイスワールドチームに籍を置く傍ら、阿部奈々美コーチのもとで指導にあたっていた。
田中が羽生に出会ったのは彼が中学2年生のとき。「先生の話を真摯に聞く姿」が心に残っているという田中だが、一つ意外なことを言った。
「もともとアクセルジャンプは苦手だったんです。失敗が大半で、奈々美先生と『試合でやらないほうがいいんじゃないですか?』『でも入れないと成長しない』みたいな会話をしたくらいです。世界一のアクセルを跳ぶ今からすると信じられませんが。彼はできない自分が許せなかったのか、いつも居残り練習して、先生が止めてもやめませんでした」
田中は3月11日の揺れた瞬間を覚えていない。その時、リンクに向かって車を運転していた田中が記憶しているのは、リンクの中にいる人たちは大丈夫か、と夢中でハンドルを握ったこと、そして到着すると人々を在家とともに外へ誘導したことだ。駐車場には外に出てきた羽生たちとリンクのある建物に入っていた他のテナントの人々が集まっていた。その後の光景が瞼の裏に焼き付いて離れない。
「晴れてはいなかったけれど外は明るかった。やがて黒い雪が降ってきました。黒ですよ」
裏手の川は激しく逆流していた。黒く見えた雪も逆流する川も怖かった。人々はいくつかの車に身を寄せ合い、迎えを待った。
4月の余震で本当のダメージが生じた
地震により壁が崩れるなどリンクは損傷を受けていた。だが本当のダメージは4月の震度6強の余震で生じた。在家が語る。
「氷はもうなくなっていたので、落下物が冷却するパイプに直接あたって破損してしまいました」
'07年の再開当初経営は厳しかったが徐々に業績を伸ばし、「ようやくとんとんになり、いい方向に行くねと話し合っていた矢先」(在家)の被災だった。
リンクが休止したことにより選手たちは首都圏や関西などに練習場所を求め、仙台を離れていく。羽生も一時期、横浜のリンクを拠点としつつ、多くのアイスショーに参加し、練習の場を転々としていた。
電力供給体制も逼迫する中、アイスリンク仙台がスケーターたちの要望に応える形で営業再開にこぎつけたのは7月24日。後日、リンクに戻った羽生は心から喜んでいた様子だったという。
再開の3日後、羽生と田中は八戸のリンクにいた。田中が当時を振り返る。