Sports Graphic Number MoreBACK NUMBER
羽生結弦と一緒に被災、アイスリンク仙台支配人が今でも「羽生君が希望の光」と語るワケ「自分が勇気をもらいたいだろうに…」
text by
松原孝臣Takaomi Matsubara
photograph byAsami Enomoto
posted2021/03/11 11:05
コロナ禍の影響を大きく受けるアイスリンク仙台。羽生結弦の活躍を希望に苦境を耐え抜こうとしている
自叙伝の印税、数百万円をすべて
「練習の合間、休んでいると『降りた、降りた』と声が聞こえてきました。リンクを覗くと、羽生君が『(4回転)サルコウを降りた』と喜んでいました。『目の前で跳んでみせて』と言ったら跳んで、ちゃんと降りたんです」
既に習得していたトウループに続き2種類目の4回転ジャンプを決めた瞬間だった。
「まだ4回転が1種類くらいの時期でしたが、キャパシティを上げたかったから練習に取り組んでいたのでしょうね。見た瞬間は、『おお、やるな』と素直に思いました」
新たな武器を手にした羽生は世界の頂点を競うスケーターの1人として羽ばたく。'12年には拠点をカナダのトロントに移した。
だが、絆は途切れなかった。
同じ年、羽生から数百万円もの寄付が振り込まれたのだ。自叙伝の印税すべてをあてたものだった。
「事前には聞いていなかったので、いきなり振り込みがあってびっくりしました」
在家は使い途を思案した。リンクを拠点としている複数のクラブの強化にあててみてはどうかと考え、一度コーチたちに打診。すると一様に辞退する旨の声が寄せられた。「羽生選手はリンクのために寄付してくれたのだから、その意志を尊重してほしい」。それがコーチたちの考えだった。
できれば利用者の目に触れるものに使いたい。考えた末、送迎用のバス2台の購入費用などにあてた。
多くの寄付金だけではなく、その活躍によっても
その後も羽生からは寄付が届いた。アイスリンク仙台の昨年4月時点の報告によれば、総額は2932万5864円に上る。感染症対策として導入したサーモグラフィーカメラもその寄付金によるものだ。
「リンクが存続してほしい、そのための手伝いを少しでもしたい、という気持ちが伝わってきます」
羽生の影響は、その活躍によっても、もたらされた。'14年のソチ、'18年の平昌と2度の五輪で金メダルを獲ると、「教室に入りたい」という子どもたち、「滑ってみたい」という大人たちが殺到したのだ。教室の定員60人に対し、100人以上が申し込んだこともあった。
「あのときがいちばんすごかったかな」
在家がそう振り返るのは、'18年4月だ。平昌五輪金メダルの祝賀パレードが仙台市内で行われる前日だった。
「通常は見学の人が訪れることはあまりないのですが、この日は800人くらいの方が来たでしょうか。急遽、外部のスタッフの手も借りて列の整理をするほどでした」