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右肩が壊れ巨人軍から解雇、魚雷を受け戦死…大野雄大がたどった伝説の名投手、沢村栄治の足跡
posted2021/01/28 17:01
text by
小西斗真Toma Konishi
photograph by
Kyodo News
1月5日、大野雄大は京都での自主トレを番記者に公開した。
伏見区出身の大野にとって「当たり前だった」伏見稲荷への初詣こそ控えたが、その後の大文字山の登山道をランニングするのは「初心を忘れないために」と高校時代から続ける正月の恒例行事である。千本鳥居、送り火で知られる大文字山。千年の都を我が庭のように駆け回るスケールは、京都出身者ならずともうらやましい限り。
ちなみに大文字山の標高は466メートル。プロに入り、取材陣もだんだんと増えてきた頃からは番記者も「同伴ラン」して息を切らせるのも恒例行事となっている。「しんどい思い」を共有することで、取材する側とされる側の信頼関係も強固になっていった。距離を取り、取材を済ませ散会……。ところが、今年は当日になって大野が予定になかった訪問先を番記者に伝えてきた。
京都学園高校。オールドファンには「京都商業」と言った方がわかりやすいかもしれない。沢村栄治の母校である。しかし、大野の母校ではない。
「そんなにすごい投手がいはったんやと」
「斉藤和巳(ダイエー、ソフトバンク)さんが沢村賞を受賞された(2003年と06年)ころ、僕は学生でした。たぶんそのことをきっかけに、沢村さんのことをハッキリ知ったんです。自分が生まれ育った京都にゆかりのある方で、そんなにすごい投手がいはったんやと」
沢村の出身は三重県の宇治山田、現在の伊勢市である。伝説の1ページ目となったのは1934年11月20日。静岡・草薙球場で行われた日米野球第10戦に沢村は先発した。ベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグらが並んだ強打線をホップすると言われたストレートと、落差の大きなドロップできりきり舞いさせた。わずかに甘く入ったドロップをゲーリッグに右翼席へ運ばれた本塁打による1失点で完投するも、味方打線が完封され敗戦。それでも沢村が直前まで学生(職業野球入りするために中退していた)だった17歳と知り、「スクールボーイサワムラ」の名は米国にも打電された。