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右肩が壊れ巨人軍から解雇、魚雷を受け戦死…大野雄大がたどった伝説の名投手、沢村栄治の足跡 

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小西斗真

小西斗真Toma Konishi

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photograph byKyodo News

posted2021/01/28 17:01

右肩が壊れ巨人軍から解雇、魚雷を受け戦死…大野雄大がたどった伝説の名投手、沢村栄治の足跡<Number Web> photograph by Kyodo News

沢村栄治の銅像の前に立つ中日の大野雄大。沢村賞の金杯を手に、出身の京都ゆかりの大投手に思いを馳せた

まさか金杯をもって訪れる日が来るなんて

 京都市の左京区にある大文字山から、右京区の京都学園高校へ。洛中を横断する形で大野と番記者は移動した。

「本当はスーツ姿で訪問するのが礼儀なんですが、どうしてもスケジュールが合わずに(京都での)最終日になってしまったんです」。ジャージー姿での非礼を、大野はこう説明している。大文字山を走り、沢村の母校に駆けつけ、そのまま名古屋の自宅へと帰っている。逆に言えば、そうまでして訪れたかったということだ。

「誰かに言われたとかじゃなく、自分で考えました。せっかく光栄な賞をいただいたんやから、行ってみたいと。(沢村栄治の)銅像があるということは、僕が高校生だったころから知ってはいました。見たのは初めてですが、まさか(副賞の)金杯をもって訪れる日が来るなんて、考えてもみなかったですけどね」

 当然ながら大野自身は京都学園につてはない。そこで在校時から野球部長を務める京都外大西校の恩師に仲介を頼み、学園側に訪問許可を依頼。学園側も沢村賞受賞者の訪問はおそらく前例がなかっただろうから、恐縮しつつも喜んで承諾した。左足を高々と挙げる沢村の銅像と金杯と受賞者。貴重な写真がこうして撮影された。

タイガースとの優勝決定戦で伝説の3連投

 碑文にも見入っていた大野にとって、沢村の人生に改めて思いをはせる機会となった。産声を上げたばかりの職業野球に身を投じた「スクールボーイ」の球歴は、まばゆいばかりの光を放っていた。草薙での快投の2年後には、洲崎球場でタイガースとの優勝決定戦で伝説の3連投。しかし、忍び寄る軍靴の音は、希代の右腕も例外とはしなかった。

 1938年に故郷の三重県久居の歩兵連隊に入営。春には中国戦線へと送られる。手榴弾を遠くまで投げられる特殊技能が、戦地では重宝がられた。野球のボールよりはるかに重い鉄の球を投げ続ければどうなるか……。右肩は壊れ、左手は銃弾が通過し、除隊して帰国後にはマラリアを発症した。

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