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「寸止めはやめなさい!」顔面打ちアリ&絞め技も…60年前の早すぎた“幻の総合格闘技”日本拳法空手道とは? 

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細田昌志

細田昌志Masashi Hosoda

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photograph byJiji Press

posted2020/12/30 17:07

「寸止めはやめなさい!」顔面打ちアリ&絞め技も…60年前の早すぎた“幻の総合格闘技”日本拳法空手道とは?<Number Web> photograph by Jiji Press

昭和30年代の空手道場の風景

「ルールだよ。山田さんは『公平なルールでやりたい』と言って聞かない。『これは日本空手とタイ式ボクシングの戦争だ』なんて言う割に、『全面的に向こうのルールなんか飲めない。それは軍門に降るということだ』って言い張ってどうしようもない。『相手はタイの国技です』っていくら言っても『それは譲れない』って」(野口修 拙著より抜粋)

 野口修によると、山田は絞め技や関節技もルールに含むように主張していたという。それが事実なら、実現不可能は言うまでもなく、むしろ、断る口実で言ったようにすら思われる。

 これは筆者の推測だが、天才山田辰雄にとって、打撃技のみで勝敗を決するタイ式ボクシングとの他流試合は、到底勝ち目のない無謀な戦いに映ったのかもしれない。むざむざバンコクまで負けに行くことは屈辱だと思ったのかもしれない。ともかく、先を見通す眼力が仇となったのは間違いない。

“幻の総合格闘技”日本拳法空手道の「その後」

 山田辰雄に断られたことで、頼みにしていた日本拳法空手道の出場が叶わず、右翼の大物である佐郷屋留雄を通して大山倍達率いる大山道場の門下生に出場を打診、受諾されたことでどうにか面目は保たれた。

 紆余曲折ありながら実現した対抗戦を二勝一敗と勝ち越したことで、大山道場は大きく飛躍することになる。当時の詳しいいきさつについては、是非、拙著を一読されたい。

「歴史にifはない」と言うが、もしこのとき、山田辰雄が出場を受諾し、日本拳法空手道の精鋭がルンピニースタジアムのリングに立っていたらどうなっていたか。

 間違いなく、日本の空手史も格闘技史も大きく変わっていたのは間違いない。ただし、日本拳法空手道がその後の極真会館のように、時代に望まれる存在になっていたかまでは判らない。極真空手の現在につながる隆盛は、一口にこの対抗戦だけを起因とするものではないからだ。

 それに、遅かれ早かれ山田辰雄と野口修とは決裂していたに違いなく、そのことを思えば、日本拳法空手道は、同じ道を辿ったかもしれない。そのことは誰にも判らない。なお、山田辰雄はこれより3年後の1967年、62歳で他界している。

 後継者と目されていた次男の山田侃は、その後、寝技も含む空手競技の実現にはさほど積極的ではなく、また山田門下生の中から、錦織利弘のように、沢村忠と人気を二分するようなキックボクサーが生まれると、日本拳法空手道は、従来の実戦空手とキックボクシングが主流となった。

 結果、現在の総合格闘技にも相通じる、日本拳法空手道の実相はさほど伝わらず、歴史に埋没することとあいなった。

 知られざる昭和の格闘史の一端だが、筆者は異端の空手家、山田辰雄及び、日本拳法空手道については、今後も探究を続けていこうと考えている。

(【前回を読む】“真空飛び膝蹴り”沢村忠はリアルに弱かったのか…全241戦「フェイク試合だった」疑惑を検証する へ)

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