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ゴミが飛び交い「やめろ」コールも…「たけしプロレス軍団」参戦に観客激怒 新日本、87年12月の悲劇
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph byAFLO
posted2020/12/31 11:02
たけしプロレス軍団(TPG)がリングに上がった『イヤー・エンド・イン国技館』の悲劇は奮闘の跡でもある
視聴率獲得こそ最大の懸案でもある
逆説的に考えれば、たけしプロレス軍団の投入は、このゴールデン陥落を避けようと、なんとか視聴率を獲得するために行われたものだった。
新日本は旗揚げの翌年、73年春から『ワールドプロレスリング』の放送をスタート。あのテレビ黄金期において、15年もの長きにわたり、ゴールデンタイムの夜8時という激戦区で高視聴率を獲得し続けるのは、並大抵のことではなかっただろう。
『イヤー・エンド・イン国技館』開催時、猪木は44歳。もはや体力的には下り坂であり、試合内容だけで大衆、一般視聴者を惹きつけることは難しくなっていた。そのために、海賊男やたけしプロレス軍団といった、飛び道具が必要だったのだ。
コアなファンから拒絶反応が起ころうとも、そういった異物を投入して視聴率を獲りに行く姿は、今年の大晦日に新庄剛志にオファーをかけたとされる総合格闘技RIZINの例を出すまでもなく、現代の大晦日の格闘技に状況が似ている。テレビのゴールデンタイムで放送されるコンテンツにとって、視聴率獲得こそ最大の懸案でもあるのだ。
プロレスは平成に入ると、不透明決着がめっきり減り、完全決着の名勝負が一気に増えた。それはテレビ放送がゴールデンタイムから外れたことと無縁ではないだろう。新日本や全日本の試合は、テレビの向こうの不特定多数ではなく、チケットを購入して会場に足を運んだファンに向けられたものに変わった。
『イヤー・エンド・イン国技館』でのたけしプロレス軍団投入とそれに付随するドタバタは、「テレビプロレス」時代の末期、ゴールデンタイムをなんとか死守しようと、猪木が必死にもがいた姿でもあったのだ。